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なお、ハーメルン市の新門にあるラテン語の碑文には、この笛吹き男の正体はマグス([[悪魔]])であったと刻まれている。
 
== 歴史的背景 ==
ハーメルンは[[ヴェーゼル河]]のほとりに築かれた町である。その起源はヴェーゼル河上流の[[フルダ]]にあったフルダ修道院がこの地域に建設した聖ボニファティウス律院である。この律院は780年頃に[[ミンデン]]司教区に組み込まれ、フルダ修道院の影響力は弱まった。またフランク王国の時代にはハーメルン近辺にヴェーゼル河を渡る橋が築かれており、橋の近くには、橋を維持管理させる為の隷農の集落が存在していた。現在のハーメルンの旧市街中心部、マルクト教会の西側の一帯がこの集落のあった地域である。
 
聖ボニファティウス律院と前述のヴェーゼル河の渡河点の集落が結びついて中世都市へと移行していったのは12世紀初頭で、その中心となったのはエーフェルシュタイン伯爵家のアルベルトであった。エーフェルシュタイン伯爵家はフルダ修道院の名目上の支配権を認めつつ、聖ボニファティウス律院の院長を自家から出すという方法で、実質的なハーメルンの支配権を奪取した。1243年にはハーメルン市[[参事会]]と聖ボニファティウス律院との間に、双方の権利の及ぶ範囲を確定させる文書が交わされ、中世都市としてのハーメルンの骨格が完成した。
 
1259年2月13日、フルダ修道院は事実上その支配権を失ったハーメルン市をミンデン司教区に500マルクで売却。7月までにはこの取引が[[ケルン大司教]]に承認され、ハーメルン市はミンデン司教の封主権を認めよとの通知がハーメルン市に届いた。しかしエーフェルシュタイン伯爵家とハーメルン市はこれを拒否し、1260年7月28日、ハーメルン市の市民軍はゼデミューンデ村付近でミンデン司教軍と激突。ハーメルン市民軍は壊滅し、生き残った市民兵の多くがミンデンで処刑された。また、詳しい事情は不明であるが、同年9月13日に交わされた条約でミンデン司教はハーメルン市からの税収の半分を、エーフェルシュタイン伯爵家と敵対関係にあった大貴族である[[ブラウンシュヴァイク公爵]](ヴェルフェン)家に与えている。
 
1277年、エーフェルシュタイン伯爵家はハーメルン市守護職の権利をブラウンシュヴァイク公爵家に売却。相前後してエーフェルシュタイン伯爵家の領地や城の大半はブラウンシュヴァイク公爵家のものとなり、ハーメルン市の建設を主導したエーフェルシュタイン伯爵家は衰退していった。ハーメルン市はブラウンシュヴァイク公爵家を君主に頂く領封都市となった。
 
==歴史==