ハーメルン

ドイツの都市

これはこのページの過去の版です。Kasuga~jawiki (会話 | 投稿記録) による 2009年10月13日 (火) 12:52個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ハーメルンの笛吹き男2009年10月7日 (水) 08:14 の版より「歴史的背景」の項を一部転記(主要執筆者:Peachkiller))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

紋章 地図
Stadtwappen von Hameln Deutschlandkarte, Position von Hameln hervorgehoben
基本情報
連邦州: ニーダーザクセン州
郡: ハーメルン=ピルモント郡
緯度経度: 北緯 52度06分11秒
東経 09度21分36秒
標高: 海抜 68 m
面積: 102.30 km²
人口: 58,872人 (2005年9月30日現在)
人口密度: 575 人/km²
郵便番号: 31785-89 (旧: 3250)
市外局番: 05151
ナンバープレート: HM
自治体コード: 03 2 52 006
市の構成: 13 市区および中核地区
市庁舎の住所: Rathausplatz 1
31785 Hameln
ウェブサイト: www.hameln.de
E-Mail: rathaus@hameln.de
行政
上級市長: ズーザンネ・リップマン (Susanne Lippmann) (無所属)

ハーメルンHameln)はドイツ連邦共和国の都市。ニーダーザクセン州に属する。人口は約5万9千人(2004年6月末)。グリム童話で紹介されているハーメルンの笛吹き男の舞台として知られる。

地勢・産業

ハーメル川がヴェーザー川に合流する辺りに位置する。ドイツ・メルヘン街道沿いにあり、毎年多くの観光客が訪れる。約40キロ東にヒルデスハイム、40キロ北東にハノーファーが位置している。

歴史

歴史的背景

ハーメルンはヴェーゼル河のほとりに築かれた町である。その起源はヴェーゼル河上流のフルダにあったフルダ修道院がこの地域に建設した聖ボニファティウス律院である。この律院は780年頃にミンデン司教区に組み込まれ、フルダ修道院の影響力は弱まった。またフランク王国の時代にはハーメルン近辺にヴェーゼル河を渡る橋が築かれており、橋の近くには、橋を維持管理させる為の隷農の集落が存在していた。現在のハーメルンの旧市街中心部、マルクト教会の西側の一帯がこの集落のあった地域である。

聖ボニファティウス律院と前述のヴェーゼル河の渡河点の集落が結びついて中世都市へと移行していったのは12世紀初頭で、その中心となったのはエーフェルシュタイン伯爵家のアルベルトであった。エーフェルシュタイン伯爵家はフルダ修道院の名目上の支配権を認めつつ、聖ボニファティウス律院の院長を自家から出すという方法で、実質的なハーメルンの支配権を奪取した。1243年にはハーメルン市参事会と聖ボニファティウス律院との間に、双方の権利の及ぶ範囲を確定させる文書が交わされ、中世都市としてのハーメルンの骨格が完成した。

1259年2月13日、フルダ修道院は事実上その支配権を失ったハーメルン市をミンデン司教区に500マルクで売却。7月までにはこの取引がケルン大司教に承認され、ハーメルン市はミンデン司教の封主権を認めよとの通知がハーメルン市に届いた。しかしエーフェルシュタイン伯爵家とハーメルン市はこれを拒否し、1260年7月28日、ハーメルン市の市民軍はゼデミューンデ村付近でミンデン司教軍と激突。ハーメルン市民軍は壊滅し、生き残った市民兵の多くがミンデンで処刑された。また、詳しい事情は不明であるが、同年9月13日に交わされた条約でミンデン司教はハーメルン市からの税収の半分を、エーフェルシュタイン伯爵家と敵対関係にあった大貴族であるブラウンシュヴァイク公爵(ヴェルフェン)家に与えている。

1277年、エーフェルシュタイン伯爵家はハーメルン市守護職の権利をブラウンシュヴァイク公爵家に売却。相前後してエーフェルシュタイン伯爵家の領地や城の大半はブラウンシュヴァイク公爵家のものとなり、ハーメルン市の建設を主導したエーフェルシュタイン伯爵家は衰退していった。ハーメルン市はブラウンシュヴァイク公爵家を君主に頂く領封都市となった。


ハーメルンの歴史は851年に設立された修道院に始まる。この村は近隣の村と共に成長し、12世紀には町となった。1284年、街の子供たちが消失してしまう事件が起こった。このことを題材としたのが、グリム童話でも紹介されている『ハーメルンの笛吹き男』とされる。この事件の真相については様々な見解があるが、統一した結論はでていない。1426年ハンザ同盟に加盟し、商工業の発展が進んだ。15世紀から16世紀にかけて、ハーメルンはハンザ同盟の下位メンバーであった。

17世紀になるとヴェーザールネサンス様式の美しい建物が数多く建てられたが、三十年戦争に巻き込まれ、デンマークに占領されるなどして一時荒廃した。1634年6月、三十年戦争の最中に、神聖ローマ帝国軍指揮官のローター・ディートリッヒ・フォン・ボェンニンクハウゼン男爵はオルデンドルフの戦いでスウェーデンのクニップハウゼン将軍に敗れ、戦闘の発端においてハーメルンはスウェーデン軍に包囲された。

かつてのハーメルン市は四つの砦に取り囲まれており、「北部のジブラルタル」の異名を持つハノーファー王国最大の要害地であった。第一砦(ゲオルグ砦)は1760年から1763年にかけて、第二砦(ヴィルヘルム砦)と第三砦は1774年から1784年にかけて、最後の砦(ルイーズ砦)は1806年に築かれた。

1808年、イエナ・アウエルシュタットの戦いでの敗北の後に、ハーメルンは戦わずしてナポレオンに降伏した。歴史的な城壁や見張り塔のすべてがナポレオンの軍隊により打ち壊された。1843年にハーメルン市民はゲオルグ砦の跡地であるクリュトの丘に展望台を建設した。この展望台はクリュト塔(クリュットゥム、Klütturm)と呼ばれ、ハーメルンの歴史的な街並を見下ろせる有名な観光地となっている。

ハーメルンの最大の商業的発展は、1664年にハーメルンがブラウンシュヴァイク家分家のカーレンベルク公国の要塞化された国境都市となった時に始まった。ハーメルンは1867年にプロイセンに併合された。

第二次世界大戦中に、ハーメルン刑務所は社会主義者や共産主義者等の政治犯の収容に用いられた。ここでは約200人の囚人が死亡しており、連合軍の侵攻を恐れたナチスが1945年4月に囚人を徒歩で移送させた事により、更に多くの囚人が死亡した。終戦後、ハーメルン刑務所はイギリス進駐軍によりドイツの戦争犯罪者の拘束に使われた。イルマ・グレーゼヨーゼフ・クラーマーを含む200名以上の戦争犯罪者が同刑務所で絞首刑となった。その後ハーメルン刑務所はホテルとして再利用された。

ハーメルン出身の有名人

  • グリュッケル・フォン・ハーメルン(1646年~1724年) - ユダヤ人女性。17世紀後半から18世紀前半のドイツにおけるユダヤ人の生活を詳細に記録した。
  • ハインリッヒ・ビュルガー(1804年~1858年) - 生物学者。オランダ政府に仕えて鎖国中の日本へ渡航し、植物相の調査を行った。
  • カール・フィリップ・モリッツ(1757年~1793年) - 作家。シュトルム・ウント・ドラングから後に啓蒙思想に転じ、ドイツ初期ロマン主義に影響を与えた。
  • フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・レーデン(1752年~1815年) - ドイツにおける鉱業と冶金学の開拓者
  • 野生児ピーター (?~1785年) - ハーメルンで1725年に発見された野生児
  • ファンカー・ヴォクト - 1995年にヘーリット・トーマスによりハーメルンで結成されたアグロテック・バンド

関連項目

参考文献

外部リンク

 
ハーメルン市の夜景
 
1900年頃のハーメルン