宮脇長吉

日本の陸軍軍人、政治家

宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1953年2月16日[1])は、日本陸軍軍人政治家実業家。最終階級は陸軍航空兵大佐衆議院議員紀行作家宮脇俊三の父。軍人時代に教え子だった佐藤賢了黙れ事件を起こされるなど戦前は自由主義者で、そして戦後は元軍人であるがゆえに政治家としては不遇な立場に置かれてしまった[2]

宮脇 長吉
みやわき ちょうきち
宮脇長吉
生年月日 1880年2月5日
出生地 日本の旗 愛媛県大川郡誉水村
没年月日 (1953-02-16) 1953年2月16日(73歳没)
死没地 日本の旗
出身校 陸軍士官学校卒業
前職 陸軍航空兵大佐
所属政党立憲政友会→)
立憲政友会正統派→)
同交会
親族 兄:三土忠造
弟:宮脇梅吉
三男:宮脇俊三
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来歴・人物

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愛媛県大川郡誉水村(現・香川県東かがわ市西部の一部)[注釈 1]の農業・宮脇清吉の四男[3]。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家の三土忠造(漢学者の家柄であった三土家の養子となった)、内務官僚として埼玉県千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想した)がおり、地元では優秀な兄弟として知られ、後に雑誌『少年倶楽部』の「兄弟出世クラブ」というグラビアで紹介されるほどだった[3]

1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[4]1904年2月、陸軍工兵少尉に任官。日露戦争に出征して戦功を挙げた。陸軍砲工学校陸軍戸山学校を卒業した後、兵科航空兵科に転じた。陸軍士官学校教官、所沢気球隊長などを歴任したが、陸軍航空兵大佐を最後に予備役に編入される。予備役編入の理由は、観測用の気球が誤って宮城の上を飛んでしまった責任を取らされてのものだった[3]

その後初の普通選挙となった1928年第16回衆議院議員総選挙で、香川県第一区に立憲政友会公認で立候補し[注釈 2]当選[5]。その後も第20回総選挙まで5回連続当選を果たし、立憲政友会総務を務めた。軍人出身ながら自由主義者と交流が深く、軍の勢力拡大・政治介入には反対の立場であった[2]。1937年の帝国議会では就任直後の米内光政海相に対する質問を行い、軍人の政治関与を非難した[6]

1938年の帝国議会では、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。これは軍による議会軽視を象徴する事件として記憶されている(佐藤は陸軍時代の教え子にあたる)。なお、野次を飛ばしたのは宮脇だけではなかったが、佐藤に標的にされたのは、宮脇が「特に声が大きかったのでしょう。それに佐藤中佐はおやじの後輩でもありましたし」と息子の俊三は語っている[7]

1939年に政友会が自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)と親軍派の革新同盟(総裁・中島知久平)に分裂した際も久原や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。

また1940年斎藤隆夫議員が反軍演説で除名された際にも、同じ政友会正統派に所属していた牧野良三芦田均らと共に宮脇も反対票を投じている(反対票は合計7)。

1941年には翼賛議員同盟に対抗した鳩山を中心とする同交会結成に参加。

このように反軍的な立場であったために、1942年翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けられずに落選[8]。さらに戦後は元軍人であったために公職追放を受けて立候補できなかった。戦前は自由主義者であるがゆえに、そして戦後は元軍人であるがゆえに政治家としては不遇な立場に置かれてしまったのである[2]

その後は鉱山会社の経営に携わっていたが1953年、唯一の残った男子である三男・俊三(既に長男・次男は病死していた)が肺結核で倒れたことに落胆し、高血圧だったにもかかわらず医師の勧めも無視して無理を重ねた[9]。そのため東海道線の車内で脳溢血に倒れ、失意のうちに死去した[10]。なお、俊三はその後、片肺ながら生還した[11]

栄典

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位階
外国勲章佩用允許

著作

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  • 『粛軍を糺す』(森田書房 1937年)
    二・二六事件への軍部の対応を批判した帝国議会での演説記録。「武権政治の弊害」と題した章では、軍部の政治干渉を「我が国体としては絶対に相容れぬもの」と批判している。

脚注

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注釈

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  1. ^ 宮脇の誕生当時、現在の香川県は愛媛県に編入されていた。香川県が再設置されるのは1888年12月3日である。
  2. ^ 宮脇 (2010, 『私の途中下車人生』)[要ページ番号]によれば、第二区から立候補していた兄の三土忠造が「じゃあ、お前は第一区から出ろ」と言ったという。

出典

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  1. ^ 衆議院; 参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年、494頁。 
  2. ^ a b c 宮脇 2007, 「オヤジ」
  3. ^ a b c 宮脇 2010, 「気球隊長だった父」
  4. ^ 『官報』第6121号、明治36年12月2日、p.57
  5. ^ 第16回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1928年、453-457頁。 
  6. ^ 高田万亀子『静かなる楯・米内光政』 上、原書房、1990年、133-134頁。ISBN 4-562-02120-9 
  7. ^ 宮脇 2010, 「黙れ事件と父」
  8. ^ 第21回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1943年、479-483頁。 
  9. ^ 宮脇 2007, 「拾いもの人生」
  10. ^ 宮脇 2007, 「拾いもの人生」「オヤジ」
  11. ^ 『宮脇俊三鉄道紀行全集第6巻』角川書店、1999年。 
  12. ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。
  13. ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
  14. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  15. ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
  16. ^ 『官報』第2501号「叙任及辞令」1920年12月2日。
  17. ^ 『官報』第8360号「叙任及辞令」1911年5月8日。

参考文献

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  • 政友会総覧編纂所 編『政友会総覧』政友会総覧編纂所、1933年、(55)頁。 
  • 宮脇俊三時刻表昭和史』角川書店〈角川文庫〉、2001年。ISBN 9784041598139 
  • 宮脇俊三『私の途中下車人生』角川学芸出版〈角川文庫〉、2010年。ISBN 9784041598139 
  • 宮脇俊三『旅は自由席』グラフ社、2007年。ISBN 9784766210620 
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク

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