藤原師輔

平安時代前期から中期の公卿・歌人。藤原忠平の次男。正二位・右大臣、贈太政大臣正一位

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ、延喜8年〈909年〉 - 天徳4年〈960年〉)は、平安時代前期から中期にかけての公卿歌人。日記『九暦』の著者。藤原北家九条流の祖。官位正二位右大臣

 
藤原 師輔
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延喜8年12月17日909年1月11日
死没 天徳4年5月4日960年5月31日
改名 大徳[1](幼名)→師輔
別名 九条右大臣、坊城大臣、九条殿
官位 正二位右大臣
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原忠平、母:源昭子源能有娘)
兄弟 実頼貴子寛子師輔師保師氏師尹藤原諸房
藤原盛子藤原経邦の娘)、勤子内親王雅子内親王康子内親王藤原顕忠の娘、藤原公葛の娘
伊尹兼通安子兼家遠量忠君、遠基、遠度登子源高明室、高光愛宮為光尋禅深覚公季怤子繁子源重信
特記
事項
冷泉円融天皇の外祖父
テンプレートを表示

概要

編集

関白太政大臣藤原忠平の次男。

有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子冷泉天皇円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。

経歴

編集

摂政・関白・太政大臣として長く朝政を執った藤原忠平の次男として生まれる。承平天慶年間(931年-947年)に累進して参議を経て、権中納言となる。その後、大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に進んだ。

村上天皇天暦元年(947年)に即位して以降は、正二位・右大臣として朝政を支える。兄・実頼も左大臣となり、兄弟で天皇を輔佐し、天暦の治と評された。

兄弟間では、兄である実頼が官位の面で先んじ、藤氏長者も譲った。が、後宮争いでは弟である師輔に軍配が上がった。すなわち、村上天皇の女御となった師輔の長女・安子は、よく天皇を助け、憲平親王為平親王守平親王を生んだ。対して、実頼の娘・述子も村上天皇の女御となったが、子をなさなかった。これにより、外戚の地位を確立した師輔の子孫(九条流)が藤原北家の嫡流となり、実頼の子孫(小野宮流)は後塵を拝することになる。

天徳4年(960年)師輔は病に伏し[注釈 1]、当時の慣習に従い剃髪出家しようとするが、村上天皇勅使を送り、師輔の必要たるを励まし慰留しようとした[3]。その甲斐なく病は篤くなり、5月2日剃髪し、同4日薨去。享年52。

師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、村上天皇の崩御後に安子の生んだ憲平親王が即位し(冷泉天皇)、その後は守平親王が続き(円融天皇)、外戚としての関係を強化できたことが、のちに師輔の家系の全盛に繋がり、長男・伊尹を筆頭に、兼通兼家為光公季と実に五人の息子が太政大臣に昇進し、子供達の代で摂関家嫡流を手にする事となった。

略系図
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原忠平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実頼
 
 
 
 
 
師輔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼忠
 
村上天皇女御述子
 
伊尹
 
兼通
 
村上天皇女御安子
 
兼家
 
為光
 
公季
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小野宮流
 
 
 
 
 
冷泉天皇憲平親王
 
為平親王
 
円融天皇守平親王
 
九条流
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〔現皇室〕

人物

編集
実頼との比較

最終的に弟・師輔の九条流が兄・実頼の小野宮流を抑えて藤原北家の嫡流となったことから、二人の間でも、師輔が才覚の面で優勢であったとされることが多い。例えば『栄花物語』では兄弟を、「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)と評している。ただし、実際には天暦の治において、実頼が才覚を現したと思われる描写もあり、実際の力関係については異論もある。

皇室からの臣籍降嫁

延長8年(930年)頃、醍醐天皇の第四皇女で4歳年上の勤子内親王に密通、のち正式に婚姻が勅許され、臣下として史上初めて内親王降嫁された[注釈 2]

その後、勤子内親王が薨去すると雅子内親王を、雅子内親王が亡くなると康子内親王を次々に降嫁され、醍醐天皇の皇女を三人も室にして、皇室との繋がりを強めた。この経緯から、師輔を『うつほ物語』の主人公の1人で「限りなき色好み」の右大将藤原兼雅のモデルとする説もある[4]

平将門の乱

平将門が乱を起こした時、藤原忠文征東大将軍に任じられたが、交戦する前に乱は平定されてしまった。朝廷では功が論じられ、兄・実頼は忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。世論は師輔こそが長者の発言であるとした。

学問

忠平の教育を受けた実頼と師輔はそれぞれ有職故実の流派を確立。実頼は小野宮流、師輔は九条流と呼ばれ子孫に受け継がれる事になった。これを纏めた書物が『九条年中行事』である。師輔と同じく故実に通じた源高明と親交があり、師輔の三女と五女が高明に嫁いでいる。才人であった高明は師輔の後援を受けて栄進する。

また、歌学にも優れ、家集『師輔集(九条右大臣集)』を残している。天暦10年(956年)「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話等が『大鏡』に記されている。勅撰歌人として、『後撰和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に36首が採録されている[5]

自身の日記『九暦』、子孫に宛てた遺訓書『九条殿遺誡』を残す。

官歴

編集

※主に『公卿補任』の記載による。日付は旧暦であらわす。

年紀(西暦) 年齢 事歴
延長元年(923年 16歳 9月5日 叙爵。
延長2年(924年 17歳 2月21日 侍従
延長4年(926年 19歳 11月10日 昇殿を聴す。
延長6年(928年 21歳 6月9日 右兵衛佐
延長7年(929年 22歳 正月7日 従五位上
延長9年(931年 24歳 3月13日 右近衛権少将
承平元年(931年) 24歳 閏5月11日 蔵人頭
承平2年(932年 25歳 正月27日 近江介を兼ぬ。
11月16日 正五位下
承平3年(933年 26歳 正月12日 右近衛権中将
承平4年(934年 27歳 正月7日 従四位下
承平5年(935年 28歳 2月23日 参議
承平6年(936年 29歳 正月29日 伊予権守を兼ぬ。
承平8年(938年 31歳 正月7日 従四位上
天慶元年(938年) 31歳 6月23日 従三位権中納言(7人を超ゆ)。
8月27日 昇殿[6]
9月3日 左衛門督を兼ぬ。検非違使別当となす。
天慶2年(939年 32歳 12月27日 中宮大夫を兼ぬ。
天慶5年(942年 35歳 3月29日 大納言
天慶7年(944年 37歳 4月22日 春宮大夫を兼ぬ(中宮大夫を止む)。
天慶8年(945年 38歳 2月28日 按察使を兼ぬ。11月25日 右近衛大将
天慶9年(946年 39歳 正月7日 正三位。4月28日 従二位
天暦元年(947年 40歳 4月26日 右大臣。5月9日 昇殿を聴す[7]
天暦4年(950年 43歳 5月24日以前 修理職別当[7]
天暦9年(955年 48歳 2月7日 正二位。6月17日 右近衛大将を辞す。
天徳4年(960年 53歳 5月4日 九条第にて薨去。出家大臣たるに依りて薨奏贈位なし[8]

系譜

編集

関連作品

編集
映画
テレビドラマ

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 風病(神経系の疾患)とされる[2]
  2. ^ 継嗣令』では、臣下は五世以下の王女でないと結婚できず、のちに規定が緩和されたものの内親王の降嫁は認められていなかった。藤原良房源潔姫嵯峨天皇皇女)・藤原忠平(源順子宇多天皇または光孝天皇皇女)も天皇の娘を降嫁されているが、いずれも臣籍降下した皇女である。

出典

編集
  1. ^ 貞信公記』による。
  2. ^ 『栄花物語 1』小学館新編日本古典文学全集〉、1995年、38頁。
  3. ^ 扶桑略記』天徳4年5月2日条
  4. ^ 山口博「藤原師輔論」『王朝歌壇の研究 : 村上・冷泉・円融朝篇』桜楓社1967年
  5. ^ 『勅撰作者部類』
  6. ^ 貞信公記
  7. ^ a b 九暦
  8. ^ 日本紀略』天徳4年5月、『栄花物語
  9. ^ 『親信卿記』天延2年5月28日条
官職
先代
藤原実頼
右大臣
947 - 960
次代
藤原顕忠
先代
藤原実頼
陸奥出羽按察使
945 - 967
次代
源清蔭
先代
藤原実頼
右近衛大将
946 - 955
次代
藤原顕忠
先代
藤原実頼
左衛門督
938 - 942
次代
藤原顕忠