蘆田 作内(あしだ さくない、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。
宇喜多家の家臣・蘆田右馬允の子。
宇喜多秀家に仕え、美作国都我布呂城(つかぶろじょう)800石を領した。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに従軍するが宇喜多軍は敗北、自身は隠遁した。
慶長19年(1614年)大坂の陣が起きると、大坂に入城し豊臣軍として戦った。
旧宇喜多家老であった明石全登[1]配下として戦った。
落城後の行方は不明で、全登と共に討死・逃亡した[2]、米田是季・塙団右衛門・横井治右衛門・山内権三郎らと討死を遂げたとも伝わる[3]。
なお、後者は米田是季の生存が判明しているため、前者・特に逃亡説が強い。
「戦国人名事典 コンパクト版」