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'''納銭方'''(のうせんかた/なっせんかた)とは、[[室町幕府]]が[[土倉役]]・[[酒屋役]]を徴収するために[[土倉]]・[[酒屋]]の有力者から任命した徴税委託の機関。
'''納銭方'''(のうせんかた/なっせんかた)とは、[[室町幕府]]が[[土倉役]]・[[酒屋役]]を徴収するために[[土倉]]・[[酒屋]]の有力者から任命した徴税委託の機関。


「納銭方」という語には納銭徴収の幕府機関あるいは請負機関を指すとする通説<!-- "通説"は田中論文(p. 2)。桑山(2006)は小野見解を"通説"と記す -->があるほか<ref>桑山(2006) p. 141</ref>、納銭そのものや納銭の出納ルート、あるいは賦課対象としての土倉・酒屋を指していたと考える研究者もいる<ref name="Tanaka2001" />。
== 室町幕府による土倉・酒屋への課税 ==
[[京都]]では[[鎌倉時代]]後期から土倉・酒屋が急速に発展してきた。[[延暦寺]]に代表される有力寺院や[[朝廷]]の[[造酒正]]([[押小路家]])などはこうした土倉や酒屋を支配下においてそこから税を徴収していた。


== 「納銭方」が意味するもの ==
京都に成立した室町幕府は本来、[[御料所]]などからの収入に財政基盤を置いていたが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝の戦い]]の中で[[南朝 (日本)|南朝]]方によって占領されたり、自軍の武将への[[恩賞]]に宛てられるなど��て次第に縮小していく傾向にあった。そこで幕府も土倉・酒屋からの徴税によって不足分を補う方針を採るようになり、軍事力による京都市中の掌握を背景に他の[[権門]]の影響力を排除しつつあった。3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]が在任していた[[応安]]4年([[1371年]])に[[後光厳天皇]][[譲位]]のための諸経費を補うためとして京都の土倉より土倉役を徴収し、[[明徳]]4年([[1393年]])には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という5ヶ条からなる法令を出した。これにおいて幕府は造酒正が朝廷財政に納入する分などを例外として、諸権門が土倉・酒屋より税を徴収することを禁じ、その代償として土倉・酒屋が年間6,000貫を幕府に納税することとなった。
史料にみられる「納銭方」に早くに注目したのは[[小野晃嗣]](1904-1942)<!-- コトバンク -->で、現納を扱う[[倉奉行]]に対して金納を扱ったのが納銭方であったと考え、これを幕府機関の一つとして捉えた<ref>桑山(2006) pp. 137-138, 215</ref><ref name="Tanaka2001" />。この小野の見解を現実的ではないと考えた[[桑山浩然]](1937-2006)<!-- 2006年逝去 //www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/2007/57/2007_256/_article/-char/ja/ -->は、納銭方は土倉役・酒屋役の収納請負機関であるとの見解を示した<ref>桑山(2006) pp. 139-141</ref><ref name="Tanaka2001" />。[[五味文彦]]は従来の研究では同一視されていた納銭方と'''納銭方一衆'''とを区別し、納銭方は[[政所#室町時代の政所|政所執事代]]の管轄下にある幕府機関であって、納銭方一衆はその下で土倉役・酒屋役の徴収を行ったとした<ref name="Tanaka2001" />。


一方で[[田中淳子 (歴史学者)|田中淳子]]は納銭方を「御料所」とする史料を示し<ref>天文2年の幕府奉公人奉書案「納銭方事、為厳重御料所之上者、(後略)」(納銭方の事は、厳重の御料所であるので、…)。</ref><ref>ここで用いられている「御料所」は領地の意味ではなく、商業課税や通行税など所領所職以外を対象とした「非所領型」の御料所を指すとされる(田中,2001)。桑山(2006,p. 105)も参照。</ref>、これを幕府機関ととらえることは不適当で、むしろ納銭そのものを指すと解する<ref name="Tanaka2001" />。また、[[折紙方]]を出納ルートあるいは折紙銭そのものを指すとする[[桜井英治]]の見解を参考に納銭方も納銭の出納ルートを指す語でもあるとしているほか、納銭の賦課対象である土倉・酒屋を指す用例も指摘している<ref name="Tanaka2001" />。
== 納銭方の成立 ==
京都の土倉・酒屋を支配下に置いた幕府は当初は直接個々の業者より徴収を行おうとしたものの、徴収効率が悪かった。そこで、「衆中」と呼ばれていたそれぞれの業者内の有力者が責任者となって、数十軒単位で幕府に代わって徴税を行い、その収入を幕府に納付する方針に変更した。その責任者が納銭方である。納銭方には、土倉の担保用質物の員数に応じて土倉役を徴収する土倉の衆中と酒屋の醸造用酒壷の壷数に応じて酒屋役を徴収する酒屋の衆中が存在した。なお、記録上において納銭方の中に[[法体]]の姿を取って「○○坊」と名乗っている者と普通に俗名を名乗っている者が存在するが、これは土倉が本来は延暦寺などの支配下にあったため、その一員である証としてそれらの寺院に属する僧侶の体裁を取った名残であると考えられている。また、当時の土倉役・酒屋役の幕府財政における重要性を反映して、本来は幕府直轄地を指していた[[料所]](御料所と同義)を納銭方に対して用いる例もあった。


== 歴史 ==
こうした納銭方であった土倉の中には[[公方御倉]]に任じられる者も存在した。本来、幕府の財貨や文書を管理する[[倉奉行]]という役職が存在していたが、運搬の手間や安全を考えて納銭方に徴税だけではなく、幕府財政の出納実務をも特定の納銭方に一任するようになり、倉奉行は幕府に直接納付を許された特定の業者からの納税(直進)や幕府の特別会計([[内裏]]造営経費である「造内裏棟別」など)及び小口の出納のみを扱う限定的な職務に縮小されることとなった。
== 室町幕府による土倉・酒屋への課税 ==
[[京都]]では[[鎌倉時代]]後期から土倉・酒屋が急速に発展してきた。[[延暦寺]]に代表される有力寺院や[[朝廷]]の[[造酒正]]([[押小路家]])などはこうした土倉や酒屋を支配下においてそこから税を徴収していた。


京都に成立した室町幕府は本来、[[御料所]]などからの収入に財政基盤を置いていたが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝の戦い]]の中で[[南朝 (日本)|南朝]]方によって占領されたり、自軍の武将への[[恩賞]]に宛てられるなどして次第に縮小していく傾向にあった。そこで幕府も土倉・酒屋からの徴税によって不足分を補う方針を採るようになり、軍事力による京都市中の掌握を背景に他の[[権門]]の影響力を排除しつつあった。3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]が在任していた[[応安]]4年([[1371年]])に[[後光厳天皇]][[譲位]]のための諸経費を補うためとして京都の土倉より土倉役を徴収し、[[明徳]]4年([[1393年]])には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という5ヶ条からなる法令を出した。これにおいて幕府は造酒正が朝廷財政に納入する分などを例外として、諸権門が土���・酒屋より税を徴収することを禁じ、その代償として土倉・酒屋が年間6,000貫を幕府に納税することとなった。
== 徳政令と財政再建 ==
ところが、6代将軍[[足利義教]]以後になると状況が変わってくることになる。まず、[[土一揆]]などによって[[徳政令]]が出されると、それによって打撃を受けた土倉を救済するために土倉役を免除しなければならなかった。その場合、納銭方からの収入が滞り、将軍の日々の生活にも影響が出る恐れも生じた。そこで、「納銭所会所」と呼ばれる一種の[[座]]を結成させて同業者間の協力組織を確立させるとともに幕府による保護・監督体制を強化して土倉や酒屋の自由な営業・廃業を規制した。また、[[分一徳政]]の導入による徳政令の手続に手数料を導入したり、新たに[[味噌屋]]や[[風呂屋]]なども対象に含めた[[馬上役]]を設定、更に納銭方に対して予定税収額を納付させた上での[[請負制]]を導入するなどの財政安定策が採られた。これによって[[応仁の乱]]直前まで、幕府の権威低下にも関わらず幕府財政は比較的安定していたといわれている。


== 室町幕府の衰退と納銭方 ==
== 納銭方 ==
京都の土倉・酒屋を支配下に置いた幕府は<!-- WP:OR/WP:V 当初は直接個々の業者より徴収を行おうとしたものの、徴収効率が悪かった。そこで -->、「衆中」と呼ばれていたそれぞれの業者内の有力者が責任者となって<!-- WP:V 、数十軒単位で -->幕府に代わって徴税を行い、その収入を幕府に納付する方針を採った。その責任者が納銭方であり、衆中は納銭方一衆あるいは'''土倉方一衆'''と称される<ref name="Tanaka2001" /><!-- 五味論文の解釈 -->。納銭方一衆と土倉方一衆を区別し前者を後者の代表とみなすこともあるが、少なくとも15世紀前半において両者は区別されていなかったと考えられている<ref name="Tanaka2001" />。この「土倉方一衆」は幕府側からの呼称でその実態は在京の有力山門土倉であった[[馬上一衆]]であった可能性が指摘されており、幕府は鎌倉時代より続くこの山門土倉をそのまま役銭の徴収に利用して山門の反発を押さえようとしたと考えられている<ref name="Tanaka2001" />。なお、納銭方一衆を通すことなく役銭を政所に直接進納するルート(直進)も存在した<ref>桑山(2006) pp. 140-141</ref><ref name="Tanaka2001" />。
だが、応仁の乱後には京都の荒廃や納税拒否の動きによって請負額に徴税額が達せずに赤字となって納銭方を辞退する者が相次いだ。れに幕府は「請酒」と呼ばれる小売専門の酒屋や「日銭屋」と呼ばれる高利・日歩の新興金融業者に対しても課税を行うなどして税収低下を抑制しようとするが、税収回復は困難であった。[[天文 (日本)|天文]]8年([[1539年]])に[[天文法華の乱]]の影響による土倉役・酒屋役の減少への対策として[[管領]][[細川晴元]]が明徳以来度々納銭方や公方御倉を務めた延暦寺系の土倉正実坊による納銭方業務の請負一任(事実上の独占化)が決定されると、土倉や酒屋がこれに強く反対して幕府への直納(直進)要求するに至った。だが、晴元はこれを拒絶し、同21年([[1552年]])には「正実坊」と同じく老舗業者であった「玉泉坊」も納銭方の地位確認を求めて訴訟を起こしたが、敗訴した。納銭方は[[天正]]元年([[1573年]])の室町幕府解体とともに廃止されるが、当時の正実坊の当主であった[[正実坊掟運]]は[[織田信長]]によってそのまま徴税担当に起用されており、その仕組みは[[織田政権]]によって吸収されていったと考えられている。

<!-- WP:V 納銭方には、土倉の担保用質物の員数に応じて土倉役を徴収する土倉の衆中と酒屋の醸造用酒壷の壷数に応じて酒屋役を徴収する酒屋の衆中が存在した。 -->なお、記録上において納銭方の中に[[法体]]の姿を取って正実坊のように「○○坊」と名乗る有力土倉と、中村や沢村などの俗人の酒屋が存在する<ref>桑山(2006) pp. 148-149</ref><ref name="Tanaka2001" />。<!-- WP:V が、これは土倉が本来は延暦寺などの支配下にあったため、その一員である証としてそれらの寺院に属する僧侶の体裁を取った名残であると考えられている。--><!-- WP:V また、当時の土倉役・酒屋役の幕府財政における重要性を反映して、本来は幕府直轄地を指していた料所([[御料所]]と同義)を納銭方に対して用いる例もあった。-->こうした納銭方であった土倉の中には[[公方御倉]]に任じられる者も存在した<ref>桑山(2006) pp. 155-157</ref>。<!-- WP:V 本来、幕府の財貨や文書を管理する[[倉奉行]]という役職が存在していたが、運搬の手間や安全を考えて納銭方に徴税だけではなく、幕府財政の出納実務をも特定の納銭方に一任するようになり、倉奉行は幕府に直接納付を許された特定の業者からの納税(直進)や幕府の特別会計([[内裏]]造営経費である「造内裏棟別」など)及び小口の出納のみを扱う限定的な職務に縮小されることとなった。-->

== 徳政令と財政再建 ==
ところが、6代将軍[[足利義教]]以後になると状況が変わってくることになる。まず、[[土一揆]]などによって[[徳政令]]が出されると、それによって打撃を受けた土倉を救済するために土倉役を免除しなければならなかった。その場合、納銭方からの収入が滞り、将軍の日々の生活にも影響が出る恐れも生じた。そこで、「納銭所会所」と呼ばれる一種の[[座]]を結成させて同業者間の協力組織を確立させるとともに幕府による保護・監督体制を強化して土倉や酒屋の自由な営業・廃業を規制した。また、[[分一徳政]]の導入による徳政令の手続に手数料を導入したり、新たに[[味噌屋]]や[[風呂屋]]なども対象に含めた[[馬上役]]を設定、更に納銭方に対して予定税収額を納付させた上での[[請負制]]を導入するなどの財政安定策が採られた。これによって[[応仁の乱]]直前まで、幕府の権威低下にも関わらず幕府財政は比較的安定していたといわれている。

=== 室町幕府の衰退と納銭方 ===
だが、応仁の乱後には京都の荒廃や納税拒否の動きによって請負額に徴税額が達せずに赤字となって納銭方を辞退する者が相次いだ。れにし幕府は「請酒」と呼ばれる小売専門の酒屋や「日銭屋」に対しても課税を行うて税収低下を抑制しようとするが、税収回復は困難であった。[[天文 (日本)|天文]]8年([[1539年]])に[[天文法華の乱]]の影響による土倉役・酒屋役の減少への対策として[[管領]][[細川晴元]]が明徳以来度々納銭方や公方御倉を務めた延暦寺系の土倉正実坊による納銭方業務の請負一任(事実上の独占化)が決定されると、土倉や酒屋がこれに強く反対して幕府への直納(直進)要求するに至った。だが、晴元はこれを拒絶し、同21年([[1552年]])には「正実坊」と同じく老舗業者であった「玉泉坊」も納銭方の地位確認を求めて訴訟を起こしたがした。納銭方は[[天正]]元年([[1573年]])の室町幕府解体とともに廃止されるが、当時の正実坊の当主であった[[正実坊掟運]]��[[織田信長]]によってそのまま徴税担当に起用されており、その仕組みは[[織田政権]]によって吸収されていったと考えられている。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 桑山浩然室町幕府の政治と経済」(2006年、吉川弘文館)ISBN 4642028528
* 桑山浩然室町幕府の政治と経済吉川弘文館 4642028528
* 早島大祐首都の経済と室町幕府」(2006年、吉川弘文館)ISBN 4642028587
* 早島大祐首都の経済と室町幕府吉川弘文館 4642028587
* {{Cite journal ja-jp |journal=史林 |volume=84 |issue=5 |pages=1-33 |year=2001 |title=室町幕府の「御料所」納銭方支配 |author=田中淳子 |naid=110000235561 }}<!-- 漢字が異なるが //researchmap.jp/read0070278/ //ci.nii.ac.jp/naid/500000561960 と同じ方かもしれない -->

== 外部リンク ==
* {{Kotobank|納銭方|デジタル大辞泉、他}}


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2016年6月14日 (火) 22:30時点における版

納銭方(のうせんかた/なっせんかた)とは、室町幕府土倉役酒屋役を徴収するために土倉酒屋の有力者から任命した徴税委託の機関である[1][2]。土倉役・酒屋役は御料所段銭棟別銭などと並ぶ室町幕府の主たる財源の一つであり、明徳4年の制法により年間6,000貫文が納められることが定められた[3][2]。当初は複数の山徒(比叡山延暦寺衆徒)の土倉(山門土倉)によって構成される土倉方一衆がその任に当たっていたが、次第に生じるようになった戦乱や土一揆による納銭の減少を食い止めようとする幕府は、その役目を山門土倉ではない洛中の土倉・酒屋にも担わせることがあった[4][2]

「納銭方」という語には納銭徴収の幕府機関あるいは請負機関を指すとする通説があるほか[5]、納銭そのものや納銭の出納ルート、あるいは賦課対象としての土倉・酒屋を指していたと考える研究者もいる[2]

「納銭方」が意味するもの

史料にみられる「納銭方」に早くに注目したのは小野晃嗣(1904-1942)で、現納を扱う倉奉行に対して金納を扱ったのが納銭方であったと考え、これを幕府機関の一つとして捉えた[6][2]。この小野の見解を現実的ではないと考えた桑山浩然(1937-2006)は、納銭方は土倉役・酒屋役の収納請負機関であるとの見解を示した[7][2]五味文彦は従来の研究では同一視されていた納銭方と納銭方一衆とを区別し、納銭方は政所執事代の管轄下にある幕府機関であって、納銭方一衆はその下で土倉役・酒屋役の徴収を行ったとした[2]

一方で田中淳子は納銭方を「御料所」とする史料を示し[8][9]、これを幕府機関ととらえることは不適当で、むしろ納銭そのものを指すと解する[2]。また、折紙方を出納ルートあるいは折紙銭そのものを指すとする桜井英治の見解を参考に納銭方も納銭の出納ルートを指す語でもあるとしているほか、納銭の賦課対象である土倉・酒屋を指す用例も指摘している[2]

歴史

室町幕府による土倉・酒屋への課税

京都では鎌倉時代後期から土倉・酒屋が急速に発展してきた。延暦寺に代表される有力寺院や朝廷造酒正押小路家)などはこうした土倉や酒屋を支配下においてそこから税を徴収していた[10][11]

3代将軍足利義満が在任していた応安4年(1371年)に後光厳天皇譲位のための諸経費を補うためとして京都の土倉より土倉役を徴収し[12]明徳4年(1393年)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という5ヶ条からなる法令を出した[13][14]。これにおいて幕府は造酒正が朝廷財政に納入する分などを例外として、諸権門が土倉・酒屋より税を徴収することを禁じ、その代償として土倉・酒屋が年間6,000貫文を幕府に納税することとなった[2][15]。実際にはこの規定額を上回る納銭が納められていた時期もあり、たとえば永享2年(1430年)には年間11,000貫文余りが進納されたとの記録が残されている[2]。徴収された納銭は主として将軍家の日常経費や政所年中行事の費用を賄うために用いられた[2]

納銭方の成立

京都の土倉・酒屋を支配下に置いた幕府は、「衆中」と呼ばれていたそれぞれの業者内の有力者が責任者となって幕府に代わって徴税を行い、その収入を幕府に納付する方針を採った。その責任者が納銭方であり、衆中は納銭方一衆あるいは土倉方一衆と称される[2]。納銭方一衆と土倉方一衆を区別し前者を後者の代表とみなすこともあるが、少なくとも15世紀前半において両者は区別されていなかったと考えられている[2]。この「土倉方一衆」は幕府側からの呼称でその実態は在京の有力山門土倉であった馬上一衆であった可能性が指摘されており、幕府は鎌倉時代より続くこの山門土倉をそのまま役銭の徴収に利用して山門の反発を押さえようとしたと考えられている[2]。なお、納銭方一衆を通すことなく役銭を政所に直接進納するルート(直進)も存在した[16][2]

なお、記録上において納銭方の中に法体の姿を取って正実坊のように「○○坊」と名乗る有力土倉と、中村や沢村などの俗人の酒屋が存在する[17][2]。こうした納銭方であった土倉の中には公方御倉に任じられる者も存在した[18]

徳政令と財政再建

ところが、6代将軍足利義教以後になると状況が変わってくることになる。まず、土一揆などによって徳政令が出されると、それによって打撃を受けた土倉を救済するために土倉役を免除しなければならなかった[19]。嘉吉元年(1441年)に生じた嘉吉の徳政一揆とこれをうけての徳政令によって徴税ができなくなったため、幕府は土倉方一衆への徴収委任を取りやめて奉行人奉書による賦課と籾井の御倉への収納に改め、さらに納銭の賦課対象を「日銭屋」と呼ばれる高利・日歩の新興金融業者や「味噌屋」にまで拡げることで、収入の回復を図った[20][2]。しかしながら洛中洛外における賦課対象の把握は奉行人の実務的負担が大きいため、やがて幕府は納銭徴収者を個別に補佐して徴収と収納を行わせることとした[2]。幕府はこの徴収者―納銭方御倉、納銭方衆中、政所納銭一衆、納銭衆などと呼ばれた―を1名から3名程度の少数のみに指定することによって、従来は土倉方一衆が得ていたであろう中間得分を抑制して収入減収に歯止めをかけようとしたようである[2]

室町幕府の衰退と納銭方

応仁の乱後には納銭が著しく減少し、明応5年(1496年)には毎月80貫文が請け負われるまでになった[2]。また戦乱により土倉・酒屋はもとより土倉方一衆(馬上一衆)までもが四散し徴税が困難になったため、これまでの山門土倉ではなく俗人の酒屋とされる中村や沢村などが徴収を行うようになった[2]。さらに幕府は「請酒」と呼ばれる小売専門の酒屋や「日銭屋」に対しても課税を行うよう改めて徹底することで税収低下を抑制しようとするが、税収回復は困難であった[21]。その後天文8年(1539年)に天文法華の乱の影響による土倉役・酒屋役の減少への対策として管領細川晴元が明徳以来度々納銭方や公方御倉を務めた延暦寺系の土倉「正実坊」による納銭方業務の請負一任(事実上の独占化)が決定されると、土倉や酒屋がこれに強く反対して幕府への直納(直進)を要求するに至った[22]。だが、晴元はこれを拒絶し、同21年(1552年)には「正実坊」と同じく老舗業者であった「玉泉坊」も納銭方の地位確認を求めて訴訟を起こしたが認められなかった[2]。なお天文8年頃の納銭は月7貫文から10貫文程度にまで減少しており、もはや土倉役・酒屋役は将軍家の要脚を担うのに十分な財源ではなくなっていた[2]。納銭方は天正元年(1573年)の室町幕府解体とともに廃止されるが、当時の正実坊の当主であった正実坊掟運織田信長によってそのまま徴税担当に起用されており、その仕組みは織田政権によって吸収されていったと考えられている[23]

脚注

  1. ^ 桑山(2006) p. 216
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 田中(2001)
  3. ^ 早島(2006) pp. 50-51, 136
  4. ^ 早島(2006) pp. 202-203, 214
  5. ^ 桑山(2006) p. 141
  6. ^ 桑山(2006) pp. 137-138, 215
  7. ^ 桑山(2006) pp. 139-141
  8. ^ 天文2年の幕府奉公人奉書案「納銭方事、為厳重御料所之上者、(後略)」(納銭方の事は、厳重の御料所であるので、…)。
  9. ^ ここで用いられている「御料所」は領地の意味ではなく、商業課税や通行税など所領所職以外を対象とした「非所領型」の御料所を指すとされる(田中,2001)。桑山(2006,p. 105)も参照。
  10. ^ 桑山(2006) p. 144
  11. ^ 河内将芳酒屋役」 『日本大百科全書 』(コトバンク)2016年6月閲覧。
  12. ^ 桑山(2006) pp. 143-144
  13. ^ 桑山(2006) p. 142
  14. ^ 脇田晴子土倉」 『日本大百科全書 』(コトバンク)2016年6月閲覧。
  15. ^ 早島(2006) p. 51
  16. ^ 桑山(2006) pp. 140-141
  17. ^ 桑山(2006) pp. 148-149
  18. ^ 桑山(2006) pp. 155-157
  19. ^ 早島(2006) pp. 137-138
  20. ^ 早島(2006) pp. 139-140
  21. ^ 早島(2006) pp. 215-220
  22. ^ 早島(2006) p. 221
  23. ^ 早島(2006) p. 225

参考文献

  • 桑山浩然、2006、『室町幕府の政治と経済』、吉川弘文館 ISBN 4642028528
  • 早島大祐、2006、『首都の経済と室町幕府』、吉川弘文館 ISBN 4642028587
  • 田中淳子、2001、「室町幕府の「御料所」納銭方支配」、『史林』84巻5号、NAID 110000235561 pp. 1-33

外部リンク