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井上清一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上清一
いのうえ せいいち
生年月日 1905年7月31日
出生地 日本の旗 富山県
没年月日 (1967-01-08) 1967年1月8日(61歳没)
出身校 東京帝国大学法学部政治学科(現東京大学法学部
前職 京都府副知事
所属政党自由党→)
自由民主党→)
無所属
称号 正四位
勲二等瑞宝章

選挙区 京都府地方区
当選回数 2回
在任期間 1953年5月3日 - 1965年6月1日

当選回数 1回
在任期間 1966年2月5日 - 1967年1月8日
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井上 清一(いのうえ せいいち、1905年明治38年〉7月31日[1] - 1967年昭和42年〉1月8日[1])は、日本内務官僚政治家参議院議員(2期)、京都市長

略歴

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明治38年に富山県婦負郡速星村の多額納税者井上清孝の長男として生まれる。第四高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に進学し、在学中の1929年昭和4年)10月に高等試験行政科試験合格。翌1930年帝大卒業とともに内務省へ入省し、四国地方行政事務局次長、同物価事務局長、京都府警察部長を歴任。

京都府知事木村惇の下で副知事を務めるが、1950年(昭和25年)4月に木村が公職選挙法違反で辞任したことで保守系の推薦で京都府知事選挙に出馬するも蜷川虎三に敗れる。同年6月に第3次吉田内閣の内閣改造内閣官房副長官となり、1953年の参院選自由党公認で京都府選挙区から出馬。当選し、2期務めた。この間、石橋内閣第1次岸内閣外務政務次官を務め、中東調査会の創設にも関与し初代理事長(1956年 - 1959年)となった。

1965年の参院選には敢えて出馬せず、翌1966年(昭和41年)2月に自由民主党推薦で第20代京都市長となる。だが、就任1年もしない1967年(昭和42年)1月6日に府警察の年頭祝閲式に出席したところ脳血管攣縮症で意識不明となり、脳出血を併発して2日後の1月8日に亡くなった。死没日をもって勲二等瑞宝章(勲五等からの昇叙)、従五位から正四位に叙される[2]

家族

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脚注

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  1. ^ a b 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』69頁。
  2. ^ 『官報』第12020号7頁 昭和42年1月11日号
  3. ^ a b 井上清孝『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  4. ^ 『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』俵孫一
  5. ^ 『日本女性録』中央探偵社、1958、「井上愛子」

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
議会
先代
近藤鶴代
日本の旗 参議院外務委員長
1962年
次代
岡崎真一
公職
先代
高山義三
京都市長
第20代:1966年 - 1967年
次代
富井清
先代
-
中東調査会理事長
初代:1956年 - 1959年
次代
山名義鶴
官職
先代
郡祐一
日本の旗 内閣官房副長官(事務担当) 次代
剱木亨弘