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島津忠貫

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島津忠貫
時代 幕末
生誕 天明6年11月8日1786年12月28日
死没 慶応2年12月14日1867年1月19日
改名 忠寛→忠貫
別名 若狭、山城(通称)、静洞(号)
墓所 鹿児島県姶良市平松 越前島津家墓所(紹隆寺跡)
主君 島津斉宣斉興斉彬忠義
薩摩藩
氏族 重富島津家
父母 父:島津忠救、母:お道(島津貴澄の娘)
兄弟 お許(樺山久言室)、お幾(義岡久福室)、忠貫、お喜佐(島津貴柄室)、入来院定経、お珍(島津忠咬室)、町田久昶
正室:島津久亮の娘
お絮(島津貴典室)、お速(小松清猷室)、養子:武五郎忠公
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島津 忠貫(しまづ ただつら)は、江戸時代後期の薩摩藩士。始羅郡重富郷[1]領主。越前島津家18代当主。藩主一門筆頭重富島津家家3代目当主。

経歴

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天明6年(1786年)11月8日、薩摩藩主一門島津忠救の長男として生まれる。母は島津貴澄の娘お道。享和元年(1801年)11月28日、忠救の隠居により家督を相続する。

享和2年(1802年)、藩主島津斉宣の五男武五郎を養子に迎える。文化6年(1809年)、武五郎が実家に戻り、代わって江戸から斉宣の三男寛二郎(忠公)が国元に下向して養子に迎えた。文化7年(1810年)、初名の忠寛から忠貫と改名。

文政8年(1825年)11月、病弱な忠公に健康面で不安があることから、忠貫から忠公の養子を求める願いが出され、又次郎(忠教)が忠公の婿養子となる。文政9年(1826年)5月28日、江戸に参勤中の藩主斉興に代わって、島津久長家老職に就くよう命令を伝えた。

天保2年(1831年)1月15日、隠居して家督を忠公に譲り、静洞と号す。慶應2年(1867年)12月14日死去。享年82。

2007年鹿児島大学付属図書館が所蔵する玉里文庫所蔵の誠忠武鑑の裏打ち紙から、忠貫に仕えた奥右筆の日記が発見された。

脚注

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参考文献

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