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藤原良継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 良継
時代 奈良時代
生誕 霊亀2年(716年
死没 宝亀8年9月18日777年10月23日
改名 宿奈麻呂→良継
官位 従二位内大臣正一位太政大臣
勲四等
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原宇合
母:石川国咸大刀自(石上麻呂の娘?)
兄弟 広嗣良継清成綱手田麻呂百川蔵下麻呂藤原魚名室、藤原巨勢麻呂室、掃子
阿倍古美奈阿倍粳蟲娘)
蓼原氏の娘
乙牟漏桓武天皇皇后)、能原長枝宅美藤原楓麻呂室、人数藤原鷲取室)、藤原家依室、藤原永手室、諸姉(藤原百川室)
特記
事項
平城嵯峨天皇の外祖父
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藤原 良継(ふじわら の よしつぐ)は、奈良時代公卿。初名は宿奈麻呂(すくなまろ)。藤原式家の祖である参議藤原宇合の次男。官位従二位内大臣正一位太政大臣勲等は勲四等。平城嵯峨両天皇の外祖父

経歴

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天平12年(740年)に発生した兄・広嗣の反乱(藤原広嗣の乱)に連座して伊豆国へと流罪となる[1]。天平14年(742年)に罪を赦され少判事に任ぜられ、天平18年(746年正六位下から従五位下に叙せられる。

その後、越前守上総守相模守上野守と地方官や、民部少輔右中弁・造宮大輔と京官を歴任するが実績を上げる事が出来なかった。加えて、南家北家に比べると式家の衰退振りは著しく、宿奈麻呂は不遇の日々を送っていた。当時は従兄で南家の藤原仲麻呂の絶頂期であり、天平宝字6年(762年)には仲麻呂の3人の息子(真先訓儒麻呂朝狩)が参議となる一方、宿奈麻呂は47歳にして未だに従五位上の位階に甘んじていた。そのような状況の中、宿奈麻呂は佐伯今毛人石上宅嗣大伴家持らと結託し仲麻呂暗殺計画を企図するも計画は仲麻呂側に漏洩。天平宝字7年(763年)に4人は捕らえられるが、宿奈麻呂は単独犯行を主張、八虐の一つである大不敬との罪により解官の上、姓も剥奪された。なお、他の3人は罪は問われなかったものの九州に左遷された(佐伯今毛人:大宰府営城監、石上宅嗣:大宰少弐、大伴家持:薩摩守)。

天平宝字8年(764年)9月に仲麻呂が反乱を起こすと(藤原仲麻呂の乱)、宿奈麻呂は詔勅を受け兵数百人を率いてこれを討ち、従五位上から三階昇進して従四位下に昇叙されると共に勲四等を叙勲され、さらに同年10月には正四位上大宰帥に叙任された。天平神護2年(766年)には従三位に昇進。参議に任ぜられた石上宅嗣と共に公卿に列す。

神護景雲4年(770年)参議に昇進してまもなく称徳天皇が崩御、皇嗣選定にあたっては弟・百川と従兄で北家の藤原永手らと共に白壁王(光仁天皇)の擁立に尽力し、正三位中納言に叙任された。同年、良継に改名。宝亀2年(771年)に左大臣の永手が死去すると光仁天皇擁立の功臣として藤原氏一門の中心的存在となり、中納言から一挙に内臣に任ぜられ、右大臣大中臣清麻呂に次いで、太政官の次席の座を占める。この右大臣・内臣併置の背景には、右大臣の清麻呂には太政官の政務にあたらせ、光仁即位に貢献した良継は内臣に任じて側近として政務に当たらせようとしたと推測される[2]。なお、当時の太政官符の宣者として清麻呂・良継はほぼ同数現れており[3]、当時の太政官には二人の権力が並立していたと見られる[4]。ここで、清麻呂を左大臣、良継を右大臣とする方法も考えられるが、位階が正三位である良継を従二位大納言文室大市に超越させることができなかった[5]大中臣氏という家柄から清麻呂の左大臣就任を憚ったとする見解がある[6]。この頃になると良継は権力を一手に握って思いのままに政治を行い、官人の人事も自由にしたという[7]。宝亀5年(774年従二位

宝亀8年(777年)正月に内大臣に任ぜられるが、同年9月18日に薨御享年62。最終官位は内大臣従二位。即日従一位位階を贈られた。

万葉集』に採られた和歌作品はないが、天平宝字元年 (757年)12月18日、三形王邸の宴で伝誦された妻の歌[8]がある。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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阿倍古美奈との間に生まれた娘・乙牟漏は桓武天皇との間に平城天皇嵯峨天皇高志内親王を儲け、平城天皇の即位に伴い、良継は正一位・太政大臣を追贈された。しかしながら、男子には恵まれず越前守などを務めた一人息子の託美が長岡京で賊に襲われて死亡すると家は断絶するに至った。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『公卿補任』
  2. ^ 土居[2020: 40]
  3. ^ 土居[2020: 42]
  4. ^ 二宮[1962: 10]
  5. ^ 倉本[2000: 101]
  6. ^ 林[1994: 35]
  7. ^ 『続日本紀』宝亀8年9月18日条
  8. ^ 「藤原宿奈麻呂妻石川女郎薄愛離別悲恨作歌」巻20・4491番
  9. ^ 読みは「いしかわのくにみなのおおとじ」

出典

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  • 宇治谷孟『続日本紀』(中下巻)講談社講談社学術文庫〉、1995年
  • 中川収「藤原良継の変」『奈良朝政治史の研究』高科書店、1991年
  • 中川収「藤原良継の境涯」『北海道私学教育研究協会研究紀要』12号、1967年
  • 木本好信「石上宅嗣と藤原良継・百川兄弟」『律令貴族と政争』塙書房、2001年
  • 土居嗣和「律令制大臣からみた光仁・桓武期」『早稲田大学高等学院研究年誌』第64巻、早稲田大学高等学院、2020年3月、35-56頁、ISSN 0287-1653NAID 120006821751 
  • 二宮正彦「内臣・内大臣考 -藤原朝臣魚名を主題として-」『続日本紀研究』911、1962年
  • 林陸朗「桓武朝廟堂の構成とその特徴」『桓武朝論』雄山閣、1994年
  • 倉本一宏「内大臣沿革考」『摂関政治と王朝貴族』吉川弘文館、2000年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年