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オショー・ラジニーシ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Oshoから転送)
オショー・ラジニーシ
生誕 チャンドラ・モハン・ジャイン
1931年12月11日
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国
ボーパール藩王国
死没 (1990-01-19) 1990年1月19日(58歳没)
インドの旗 インド・プネー
国籍 インドの旗 インド
別名 アーチャリヤ・ラジニーシ、バグワン・シュリ・ラジニーシ、シュリ・ラジニーシ、ゴータマ・ザ・ブッダ、シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダ、オショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)、オショー(和尚、Osho)
職業 インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、オショー=ラジニーシ運動の創始者[2]
活動期間  1972年~1990年
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オショー・ラジニーシ(Osho Rajneesh、和尚ラジニーシ)、アーチャリヤ・ラジニーシ(Acharya Rajneesh、ラジニーシ先生)[3]バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh)[† 1][2](誕生時 チャンドラ・モハン・ジャイン(Chandra Mohan Jain)1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、オショー=ラジニーシ運動(ORM:Osho Rajneesh Movement、ラジニーシ運動)[† 2]の創始者[2][4][5]オショーOsho和尚)とも。オショー・ラジニーシまたはオショーに改名したのは最晩年である。便宜的に記事内ではオショー・ラジニーシと表記する。彼と彼が率いた教団・運動について述べる。

概要

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東洋の神秘主義・個々人の勤行・性的自由を折衷的に説いたインドのスピリチュアル指導者である[6]新宗教運動の指導者として生涯物議を醸した人物で、組織化された宗教を否定し[7][2][8]、霊的経験はいかなる宗教教義の体系にもまとめ上げることはできないと主張した[6]グルとして、瞑想を提唱し、人間の霊的な面を体験できるよう設計したダイナミック瞑想英語版と呼ばれる独自の形式を教えた[6]。伝統的な禁欲的な修行を否定し、サンニヤーサ英語版(放棄)の考えを禁欲主義ではなく無執着��観点から再解釈し、信奉者たちに、この世に執着することなくこの世を完全に生きることを提唱した[6]タントラについて、性欲を受け入れ解放し、人間に深い自由をもたらす唯一のスピリチュアルな道として、性にフォーカスして再解釈し(ネオタントラ[9]、セックスが超意識に至る手段になりえると説いた[10]。性愛に対してより革新的な態度を表明したことで[11]、1960年代後半にインドで論争を巻き起こし、「セックス・グル」として知られるようになった[2][12][13]

インドで活動する様々な宗教者を訪ねては洞察を得て、ジャバルプール大学で哲学を学び、1960年に同大学で教えるようになり、教授になった[14][6]。1953年に21歳で悟り、スピリチュアルな目覚め(宗教的経験英語版)をしたとされ[6][15]、学問の世界で数年間活動した後、1966年にジャバルプール大学の職を辞め、インド中を旅し、インド各地で講話を始め[14]、主流宗教の正統性[2][16][17][11]、主流の政治イデオロギーやマハトマ・ガンディーの正統性を声高に批判する人物として知られるようになった[18][19][20]ジャイナ教ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズムタントラ道教スーフィズムキリスト教仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドシク教等の聖典について語り[21][22]、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した[14]。彼は第二次世界大戦後の独立後の20世紀のインドにおいて、最も論争の的になった人物であると言われる[23]

1970年にムンバイに滞在し、「ネオ・サニヤシン」として知られる彼の信奉者達に教えるようになった[2]。この時期、ラジニーシは自身のスピリチュアルな教えを広げ、世界中の宗教的伝統、神秘主義者、バクティ詩人、哲学者たちの著作について幅広くコメントした。1974年にプネーに移転してアシュラム(道場)を設立し、ここで、増加する欧米人の信奉者達に、ヒューマン・ポテンシャル運動発の方法を取り入れた多様な個人セラピーやグループ・セラピー、ニューエイジのヒーリングの多様なプログラムが提供された[24][25][6][26]。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの欧米人、特に先進資本主義国の若者を引き付けた[10][27][28]。運動の中心はカウンターカルチャーの影響を受けた西洋人になり、以降オショー=ラジニーシ運動はニューエイジの文脈で見られている[28]。欧米人の参加者が増えたことで、彼らがもたらしたヒッピー文化を色濃く反映していった[28]

アシュラムでは悟りを目指してかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーでは全裸になることが求められ、グループ・セラピーでは暴力が許されることもあり、セックスも行われていた[29]。こうしたグループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は、オショー=ラジニーシ運動の評判を悪化させ[30]、1980年代半ばまで運動は乱交で悪名高かった[31]。著しいメンバーの増加でオショー・ラジニーシは少数の弟子以外と個人的に接することが難しくなり、アシュラムの制度化が加速し、健康状態の悪化もあり、1970年代中頃から組織運営から徐々に身を引き、数人の西洋人サニヤシンが中心となって運営した[32]。オショー・ラジニーシの偶像破壊的な教えやヒンドゥー教に対する頻繁な攻撃、アシュラムでのラディカルで強烈な実験等により、インド社会・インド政府との軋轢は激しくなっていった[33][34]。オショー=ラジニーシ運動は、設立後数年で世界中から何千人もの信者を集め、何百万ドルもの資産を蓄えた[34]。1970年代後半になると、モラルジー・デーサーイー首相のジャナタ党政権と運動との間には緊張が生じ、アシュラムの発展は抑制され、非営利団体であるにも関わらず約8千万ドルもの巨額の収入があることから、政府は財務状況の調査を行い非課税資格を取り消し、推定500万ドルの追徴課税を行った[33][28][34]。また、プネーの施設への一連の放火事件があり、こうしたことからアメリカへの移転に向かった(地元警察とインド警察刑事捜査課英語版は後に、放火事件は迫害のイメージ作りのための、教団内部による犯行の可能性が高いと結論付けている)[34]。1970年代後半が運動のピークで、これ以降正式な会員数は減少している[35]

1981年に活動の中心をアメリカに移し、オショー・ラジニーシらはオレゴン州ワスコ郡アンテロープ英語版近郊に移住し、廃墟だった牧場を購入し、砂漠の只中に巨大なユートピア共同体ラジニーシプーラム英語版建設を計画した[6][34]。1980年代からは、グループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は禁止されるようになった[30]

プネーのアシュラムに見られたスピリチュアリティとグローバル資本主義の融合、宗教とビジネスの融合は、アメリカで大胆に推し進められた[34]。オショー=ラジニーシ運動はスピリチュアルで商業的な企業へと急速に発展し、(表向きは教団から独立した)多数の企業が相互に結び付いた、世界各地の宗教的・世俗的企業の広大で流動的、柔軟なネットワークからなる、非常に複雑な企業の複合体となった[34]

ラジニーシプーラムは「砂漠をオアシスに変える」ことを目指し、節水、リサイクル、有機農業のプログラムを実施する非常に進歩的な社会実験として始まり、1980年代半ばの絶頂期には、アメリカ史上最大の、最も発達した、最も裕福な宗教共同体の実験の1つとなったが、地方自治体と対立し、厳しく統制された、かなり偏執的なコミュニティになり、多くの犯罪行為に手を染め、短期間で壊滅した[34]。運動は元々緩やかなネットワークだったが、オショー・ラジニーシ自身もその流れを容認する形で、組織の中央集権化と制度化の流れが進み、確固としたヒエラルキーを持つ宗教組織に変わっていった[36][37]。ラジニーシプーラムは次第に全体主義的な特徴を持つようになり、永住者は全ての財産をコミューンに寄付し、長期滞在者はコミューンにお金を払い、各種の労働に励み、近隣住民と日常的交流のない孤立した生活を送った[36]。オショー・ラジニーシの急進的な世界観だけでなく、メンバーが周辺住民に対し意識変容を目指すことを自負して優越的な態度で接したこと、アンテロープの町を実質的に乗っ取りラジニーシプーラム市としたこと、ラジニーシプーラム市の正式な市としての認可を目的に全米から1500名のホームレスを集め選挙工作をしたこと等から、地元住民とのトラブルが絶えなかった[38]。オレゴン州のコミューンの外でも中央集権化と標準化が進められ、各国に大きなコミューンが作られ、オレゴンのスタッフからラジニーシプーラムへの寄付が強く求められた[38]。コミューンに参加せず社会生活を送っていた者は教団ヒエラルキーの下位に置かれ、「明け渡し(サレンダー)が足りない」と批判され、世界中で半数近くがこの時期に運動から離脱している[38]

オショー=ラジニーシ運動はワスコ郡の住民や州政府と対立し、アシュラムの建設や継続的な開発に関する法廷闘争が相次いで拡大は阻害された。オショー・ラジニーシの側近の弟子達は、1984年にワスコ郡の選挙結果を左右することを意図して、サルモネラ菌を散布して集団食中毒(アメリカ初のバイオテロであるラジニーシ事件)を起こし(被害者約750名、うち45名が入院)、1985年にチャールズ・H・ターナー英語版連邦弁護士に対する暗殺計画英語版を立て(未遂に終わった)、オショー・ラジニーシの主治医スワミ・デヴァラジ(ジョージ・メレディス)の殺人未遂、公になったものでは最大の違法盗聴事件、公共施設の放火、麻薬の密輸、アメリカにおける最大の移民詐欺事件などの数々の犯罪行為を行い、オショー・ラジニーシは1985年に地元当局に彼の個人秘書マ・アナンド・シーラ英語版と彼女の側近に対する捜査を求め、その後、シーラを含むアシュラムの弟子数名に有罪判決が下された[39][6]。同年オショー・ラジニーシは、起訴された容疑は認めないが有罪を認める答弁を行う司法取引アルフォード・プリー英語版に基づき、別の移民詐欺の容疑でアメリカから国外に追放された[40][41][42][6][43]。その後、21カ国が彼の入国を拒否した[44]

最終的に1986年にインドのムンバイに戻り、弟子の家に6ヶ月間滞在し講話を再開した後、1987年1月にプネーに戻り、アシュラムを復活させた[45][46]仏陀等のインドの宗教家たち、老子荘子達磨から臨済らの禅僧等の宗教家の文献を取り上げて語ってきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行った[22]。インド帰国後は、サニヤシンのグルへの無条件の服従や全面的コミットメントの傾向を解消し、宗教の脱制度化を進める方向に転換していき、オショー=ラジニーシ運動のセクト的な特徴は徐々に薄れ、アメリカ時代の中央集権的な体制・大規模な国際的コミューンから、小規模なグループが各国に点在し各瞑想センターが独自に展開する、初期のインド時代と似た状況に変わっていった[47]。サニヤシンたちは緩やかなネットワークを重視し、組織的な動きを警戒するようになった[47]

プネーのアシュラムは1980年代後半から1990年代前半にかけて大きく変化し、共同体的な雰囲気を持つ素朴なアシュラムから、多くの短期滞在者を受け入れる「瞑想と自己発見のための高級リゾート」、多様なサービスを提供する世��的なスピ​​リチュアル・センターへと急速に変化・拡大し、年配のサニヤシンたちは世界の他の地域へと出て行った[31]。コミュニティのリーダーシップにも重要な変化があり、オショー・ラジニーシは1989年に、ジェイエシュ(マイケル・オバーン)、アムリト(ジョージ・メレディス、旧名スワミ・デヴァラジ)、アナンドを中心とする21人の弟子からなる「インナーサークル」と呼ばれる委員会を設立し、彼らが運営の実務を担った[31]

オショー・ラジニーシはプネーのアシュラムで1990年に死去した。死後信奉者たちは、彼が政府の陰謀の犠牲者だという確信を持ち、その無実を主張し、運動を継続した[6]。プネーのアシュラムは現在、Osho インターナショナル・メディテーション・リゾートとして知られる[48]。宿泊料や各種コースの料金は上昇し、宿泊者の数は減っていき、2016年時点で少数の富裕層向けの施設となっている[31]。OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートとOSHOインターナショナル財団は提携関係にある[35]

オショー・ラジニーシの教えは欧米のニューエイジの思想に影響を与えており[49][50]、その人気は彼の死後から2005年までの間に高まったと言われる[51][52]

オショー・ラジニーシは生前、インドのスピリチュアルな伝統である瞑想に著作権や商標を適用し、独占しようとすることを批判したが、彼の死後、彼の瞑想や著作(講演録)は著作権で保護され、Oshoは商標登録され、使用権と利益をめぐる様々な争いにつながった[53]。OSHOインターナショナル財団(OSHO International Foundation、OSHOインターナショナル・ファウンデーション。旧ラジニーシ・インターナショナル財団)が、関連するすべての知的財産権の保有を主張し管理していたが[54][55]、1990年代後半には、対立する派閥がオショー・ラジニーシの著作物に対するOSHOインターナショナル財団の著作権の保有と、資料の出版や再版に対するロイヤルティー(使用料)請求の有効性に異議を唱えた[56][57][58]。 OSHOインターナショナル財団とオショー・フレンズ・インターナショナル(Osho Friends International:OFI)とのアメリカでの法廷闘争は10年近くに及んだが、OSHOインターナショナル財団が提出したオショー・ラジニーシの遺言状に偽造の疑いが生じ、遺言状は取り下げられ、控訴は棄却[59][53]。2009年1月に、OSHOインターナショナル財団がアメリカで保有していたOshoという商標は無効となった[59]。今日多くのサニヤシンは、インナーサークル、特にジェイエシュとアムリトに対し、彼らがオショー・ラジニーシの遺産を単なるビジネスと化し、共同体の富を私利私欲のために流用していると激しく非難している[31]。こうした批判や告発、訴訟は、インド国内だけでなく世界中のサニヤシンたちのスピリチュアルな生活や士気に影響を与えており、プネーのアシュラムやその周辺の街の雰囲気は、かつての陽気で祝祭的なものから著しく悪化したと言われる[53]

オショー・ラジニーシの死後、アシュラムやコミューンでフルタイムで生活し人生を捧げるスタイルは廃れ、世界各地に緩やかにつながるセンターが点在し、センターや個人の家に集まる分散型モデルに移行した[53]。21世紀初頭時点で、60か国以上に約750のセンターがあった[6]。人々は各地のセンターで短期間スピリチュアルなリトリートを体験し、日常に帰っていく[53]。また、世界中で行われているオショー・ラジニーシの教えの実践の多くは、現在もネオタントラと性愛に重点を置き続けている[53]

呼称の変遷

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幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンといい、「闇を照らす満月の王者」を意味する[本人 1]

グルとして活動を始めた当初はアーチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ先生)と呼ばれていたが、1971年に名前を変え、「バグワン」を新しい敬称として選び、バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh)と名乗り、15年間この名前を使用した[60][61]バグワン(Bhagwan)はサンスクリット語の「bhagavat」(神の名前であり、仏教では仏陀の尊称、如来の10の尊称の一つであり、「世の中で最も尊い人」または「世に尊ばれる人」を意味し、漢語では「世尊」と訳される[62][63])に由来し、「神聖な、栄光ある、尊敬すべき、神の」という意味で、神の伝統的な名前でもある[61]。 「シュリ」は本質的には敬称であり、文字通り「光」や「輝き」を意味するが、高い地位、権力、威厳、または吉兆を意味する[61]。彼は後に、この新しい称号の採用は、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒といった既存宗教の信者達を挑発するためだと述べている[61]。神の伝統的な名前を名乗ることで、その意味を根本的に変えると同時に、実のところ私たちは皆すでに祝福された者であり、「神々」であることを示唆した[61]

オレゴンのコミューンの崩壊をきっかけに、様々な称号を試していった[31]。インドに帰国以降、サニヤシン達に対し、自らが「友人」であり一宗教のリーダーではないと繰り返すようになった[47]。1989年1月「冗談は終わった」と宣言してバグワンという称号をやめ[47][31]、一時的にゴータマ・ザ・ブッダを名乗り、1986年11月のラジニーシ新聞で「私のメッセージとゴータマ・ブッダのメッセージは非常に似ているため、彼は私の乗り物であったとも言えるし、私が彼の乗り物であるとも言える」と語ったが、その直後に自分はゴータマ・ブッダ自身ではなく、ブッダが将来(宇宙の終わり)にやってくる彼自身の代表として予言したマイトレーヤ(弥勒菩薩)であり、自分はブッダの「友人」と呼ばれるべきだと説明した[31][† 3]。シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダとも名乗り、1989年2月にオショー・ラジニーシを名乗り、その後1989年9月には単にオショー(和尚、Osho)という称号を名乗った[31][47]。(しばらくの間は オショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)として知られた[本人 1])。

宗教学者の伊藤雅之は、当然ながら「光明を得た」マスターとサニヤシンに一般的な意味での友人関係が成立したわけではないが、最晩年の改名には、インド帰国後にアシュラムの脱制度化を進める中、権威主義的な意味合いや組織的な上下関係が含まれないようにという意図があったと解釈している[47]

オショーが選ばれた理由として伊藤は、日本語の「和尚」から取られたとしている[47]。アメリカの宗教学の教授ヒュー・B・アーバン英語版は、オショーが選ばれた理由として、第一に禅宗の僧侶の伝統的な称号であり、この時期の講話のほとんどを(彼の因習打破の教えに最も近い、相似の教えであったとも言える)禅に捧げていたこと、第二に、オショーという名前は「大洋のような感覚」と共鳴しており、これは神秘主義者が涅槃または無限への融解の体験を説明する際にも、フロイト主義者が子宮内の胎児の初期の状態を説明する際にも使われるフレーズであることを上げ、第三に、オショー・ラジニーシのコミュニティの法的な声明に基づくと、美的、商業的、マーケティング的な価値も考慮して選ばれたと考えざるを得ないと述べている[31]。OSHOインターナショナル財団は、商標および著作権に関するウェブサイトのページで、名称の変更は、マスターと、マスターに関連するすべての作品、財産、方法、および商品の「ブランド再構築(rebranding)」であるとはっきり述べている[31]。宗教学者のマリオン・S・ゴールドマンも、Oshoへの名称変更は、オショー=ラジニーシ運動のブランド再構築と、以前の困難からうまく距離を取る戦略の一環だったと述べている[35]

来歴

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初期

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オショー・ラジニーシは1931年12月11日に、中央インドのマディヤ・プラデーシュ州のクチワダという小さな村で、でジャイナ教の商人の長男チャンドラ・モハン・ジャインとして生まれた[64][61]。ラジニーシというあだ名で呼ばれ、母方の祖父母である年配のジャイナ教徒の夫婦に育てられた。子ども時代は祖父母に驚くほどの自由を与えられ、「ラージャ」つまり王様のように扱われていた[61]。伝記作家のヴァサント・ジョシによると、「彼の学校時代は、あらゆる権威に対する反抗の時期であり、ギャングを組織して村を恐怖に陥れ、他人を命の危険に誘導したり追い込むような、無謀な『実験』を行っていたと語られている。」[61]。7歳のときに母方の祖父が死去し、この出来事は深い心の傷となった[61]。子供時代、他者が死に直面するのを観察することに魅了されていたと言われ、危険な洪水の川に飛び込むなど、自身を命の危険にさらしたことも知られている[61]。また、1947年には幼なじみのガールフレンドが死去し、彼は数年間深い鬱状態に陥った[61]

19歳でジャバプールのヒトカリニ大学英語版(Hitkarini College)で学び始めたが、講師と衝突した後すぐにD・N・ジャイナ教大学(D. N. Jain College)に転校した[61]。大学では哲学を専攻したが[65]、彼自身が後に回想しているように、たとえ戯れにでも、問題を引き起こしたり、教官に論争を吹っ掛けることに必然性を感じており、非常に問題児だったようである[61]。授業には出ずに試験を受けることだけを求められ、自由時間を利用して地元の新聞社で働き、演説を始めた[61]

独立後インド社会が様々な社会的・宗教的対立に苦しんでいた1950年代初頭に、彼の最初の大きなスピリチュアルな変容があり、彼自身が語るところによると、クリシュナ仏陀マハーヴィーライエス・キリストヴェーダコーランなど、どの教えも確かな根拠を与えてくれるものとは思えず、彼はスピリチュアルな危機、一種の「魂の闇夜」の中で精神的な迷路に陥った[61]。本人曰く「気が狂ったも同然」「完全な暗闇」の状態となり、何日も空腹や渇きを感じることもなく、朝夕5マイルから10マイルも走り続け、困惑した両親は、アーユルヴェーダ医や宗教家などの元に連れて行った[61]。彼はついに完全な絶望に陥り、あきらめて激しい肉体的苦行をやめ、それから7日目の1953年3月21日に悟りの体験が起こり、エネルギーがあらゆるところから湧き上がり、彼の中で弾け、気が狂いそうな至福に浸るエクスタシーの体験をし、仏陀が言う無我、自我の喪失・自己の消滅、再生を体験したという[61]。伊藤雅之は、「人間の意識の最終的な段階に達し光明を得たという」と表現している[64]

この体験の後も学業を続け、1955年と1957年に哲学の学士号と修士号を取得した[61]ラーイプルのサンスクリット・カレッジで哲学を教え始めたが、すでに物議を醸す人物として広く知られており、「生徒の道徳、人格、宗教を破壊する」等と批判され、同僚の教師や上司を敵に回したが、むしろ「危険な男」というイメージを積極的に受け入れ、過激で挑発的で因習を打破する、斬新で独創的な教師として自身を表現し、活動した[61]。彼の講義が大きな論争を巻き起こしたため、1958年にジャバルプール大学の哲学教授となった[35]。インド全土を巡って講義を始め、挑発的で物議を醸す面白い講師というスタイルを磨き、欧米で台頭していたカウンターカルチャー運動を反映し、独自のインド版カウンターカルチャー革命、因習打破の教えを作っていった[61]

すぐに多くの裕福な商人や実業家を含む忠実な支持者を獲得し、彼らはスピリチュアルな発達や日常生活に関する個別相談を行って寄付をした[35]。インドでは学識ある人や聖職者に個人的に相談しアドバイスを求めることは一般的なことだが、彼のクライエントの急激な増加は、並外れたスピリチュアル・セラピストだったことを示唆している[35]

彼はスピリチュアルな指導者として全国的に台頭し、急速に成長する大都市ボンベイの裕福なインド人ビジネスマンの間で人気を高めていった。1964年までに、裕福なインド人後援者のグループが、オショー・ラジニーシと彼が時々田舎で開催していた瞑想リトリートを支援するための教育信託を設立した[35]。またこの頃に、初期の弟子の中で最も重要な人物ラクシュミ・タカルシ・クルワが弟子になった[61]。彼女は、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーや、四代目首相のモラルジ・デサイ、その他の政治家と密接な関係を持つ国民会議党の大物支持者の若い娘で、広い人脈を持っており、オショー・ラジニーシに一目惚れした様で、最初の本当の「グルーピー」だった[61]。彼女は組織のトップと個人秘書を兼ねたビジネスマネージャーとなった[35]。初期のもう一人の重要人物が、アメリカのニュージャージー州の学校に通い、裕福なアメリカ人の夫がいたシーラ・パテル(のちマ・アナンド・シーラ英語版)で、夫も運動に加わったため、多額の資金を運動にもたらした[61]。ラクシュミのビジネスセンスとシーラのコネクションにより、オショー・ラジニーシは裕福なインド人だけでなく、インドのスピリチュアリティ・西洋の心理学・体制への攻撃などをミックスした彼の教えを新鮮に感じる欧米の観光客も引きつけるようになった[61]。当時アメリカは、まだベトナム戦争の反戦デモの渦中にあり、1960年代のカウンターカルチャーは終焉を迎えつつあり、クリシュナ意識国際協会超越瞑想運動といったこの時期の他のインド系新宗教運動と同様に、サイケデリック・ドラッグや過激な政治運動、その他のカウンターカルチャーの思想を試したものの飽き足らず、もっと永続的な自己変革の形を模索していた若者達に特にアピールした[61]。当時の運動は、裕福なインド人ビジネスマンと、長髪でみすぼらしい服装のヒッピーニューエイジャーが混ざり合っていた[61]

オショー・ラジニーシは高校時代に社会主義に興味を持っていたが、経済システムとしての社会主義に次第に幻滅していき、1960年代後半までに、社会主義の知的基盤と、現代インドにおける社会主義の社会的・経済的・倫理的影響に対する非常に厳しい批判、マハトマ・ガンジーへの批判、反ガンジー主義に発展した[66]。彼の経済への態度は、資本主義の積極的推進・反社会主義であった[66]。また、インド哲学の要素と、ポスト・フロイト派の精神分析生体エネルギー論英語版、西洋の神秘家・哲学者ゲオルギイ・グルジエフの折衷的な神秘主義等といったヨーロッパの心理学から導入したアイデアの融合をさらに進めていった[61]

大学当局の求めで、1966年にジャバルプール大学の職を辞し、スピリチュアルな指導者としての役割を示すアーチャリヤ(教師または教授)・ラジニーシという名前を使い始め、講演、瞑想キャンプの開催、裕福なクライエントのカウンセリングで生計を立てていた[35]。彼の公開講座はより過激になり、主流の政治や宗教を批判し、よりオープンで自由な性愛を提唱した[35]。インド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、全ての組織宗教を激しく批判し、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した[65]。グルジエフの研究を基に、人間が自分の身体的、霊的・精神的、感情的なプロセスを観察することを容易にするアクティブな瞑想エクササイズも開発した[35]。彼の教えはほとんどのインド人にとって非常にショッキングだったが、一部の人にとってはかなり魅力的だった[65]。口コミや、時折メディアで彼の才能に触れられたことで、1960年代後半から1970 年代前半に、欧米人が彼の瞑想キャンプにやって来るようになった[35]

ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画

1970年頃まで、オショー=ラジニーシ運動はさほど組織化されておらず、彼は一思想家であり、講演を聞きに来る人も弟子ではなく聴衆だったと言える[65]。1970年代より思想家からグルへと移行し、聴衆の一部が弟子になり、正式にイニシエーションを授け、弟子を取るようになった[65]。オショー=ラジニーシは、イニシエーションを受けた西洋人の弟子たちに、しばしばヒンドゥー教で崇拝される神々の名前を与え、これは彼らの心理的・霊的な生まれ直しを意味した[35]。また、この頃ボンベイでは、すべての弟子にインドの伝統的な聖者の色であるサフラン・オレンジのローブを着させ、自身の写真入りロケットをつるした数珠を身につけさせたが、神々の名前と聖者の衣装というインスタントな神聖さは、その自由奔放な政治的・性的哲学と相まって、地元住民の深い怒りを買った[35][60]。一方で、インド人訪問者の数を上回り始めていた欧米人の訪問者たちを魅了した[35]。彼の過激な教えの評判、その哲学、インドの慣習を軽んじる何百人もの特権的な欧米人の弟子たちの存在は、地域との間に緊張を生んだが、緊張が高まることで内部の連帯が生じ、ひとつの運動として形成されていった[35]

1971年にアーチャリヤの称号を止め、悟りを開いた者や目覚めた者を意味する、より広義のバグワンという称号に変え、約20年前の1953年3月21日に、光明を成就させる真の「悟り(satori)」の深遠な無を体験したと公言した[35]。同年、初めて英語で著作『I am the Gate』が出版された[35]。より多くの欧米人が弟子になり、公式の組織が作られた[35]。欧米からの訪問者は彼のボンベイのアパートに集まり、彼は海外からの訪問者の何人かに西ヨーロッパとアメリカに瞑想センターを作らせ、西洋とのネットワークを構築した[35]

インド 第1期プネー

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プネーにて、1977年


1974年にボンベイの南東100マイルにある高原都市プネーに本部を移した[35]。欧米人からの多大な支援と、長年のインド人の弟子からの追加の財政支援を受け、オショー・ラジニーシは郊外のエリート街コリアゴンパークに隣接する不動産を取得し、2万平方メートルの敷地をもつシュリ・ラジニーシ・アシュラムを作った[35][60]。その後5年間でシュラムは成長し、彼がスピリチュアルな師として数千人を前に講義できる瞑想ホール、小規模な講堂、ヒューマンポテンシャル運動のグループ・セラピーのための施設、診療所、家内工業、レストラン、商店、教室、定住しているサニヤシン用の住宅が設けられた[35]

インドを旅していた欧米のヒッピーや、日本でいう精神世界の探究者たちがオショー・ラジニーシと出会って惹きつけられ、続いてヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていたセラピストたちがスピリチュアリティの新たな発展を求めて集まるようになり、欧米人のサニヤシンが大部分を占めるようになっていった[60]。第1期プネーのアシュラムは、国外からの25万人ものメンバーを集め(うち3000人ほどが定住)、オショー・ラジニーシの周辺にはコミューン的な状況が生まれた[10]。運動は明らかに階層化されており、裕福で才能のある弟子たちが彼に最も近づくことができた[35]

彼のもとに集まるセラピストが増加するにつれ、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ者の訪問も増え、様々なセラピーの一大実験場と化していった[32]吉福伸逸は、オショー・ラジニーシのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル運動、ホリステッィク・ヘルス運動に関連した宗教のなかで、唯一、もっともニューエイジ的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供したグループは他になく、初期のエサレン協会のような活気が、プネーのオショー・ラジニーシのアシュラムにはあった、と述べている[67]。当時、悟りに至る手助けとして行われたセラピーはかなり実験的で激しいもので、セラピー内では全裸、肉体的暴力、セックスも行われていた[29]。彼のラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、特に先進資本主義国の若者を惹きつけたが、インド社会とオショー=ラジニーシ運動の軋轢を激しさを増していった[28]

日本

1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され[68]、日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩(うた)』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れた[69]という[† 4][† 5]

アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム

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1980年代

1981年の春、オショー・ラジニーシは持病の喘息と糖尿病のために講話を含め公共の場で発言しなくなり、アシュラムの実権を個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねた[28]。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒土を購入し、1981年8月にオショー・ラジニーシを招き、サニヤシンたちはそこにラジニーシプーラム市を建設した[36]

ラジニーシプーラムの入り口
「ラジニーシ」に奉げられた石碑

警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた[72]。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった[72]

オショー・ラジニーシが運転するロールス・ロイス
ラジニーシプーラムに作られた空港。「エア・ラジニーシ」と書かれた自家用ジェット。
「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々
ラジニーシプーラム(1982年)
ラジニーシプーラムでの祭りの様子(1983年)
ラジニーシプーラムに建設されたゲストハウス

ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、オショー・ラジニーシはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。オショー・ラジニーシは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った[関係者 1]

約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは永住者、長期滞在者、訪問者に分かれていた[64]伊藤雅之は、オショー・ラジニーシ自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている[73]

「ラジニーシ市」の看板(1985年)

1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった[74]。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた[74]。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった[75]。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である[76]。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、オショー・ラジニーシの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた[77][78][79][75]

1984年10月、3年半の沈黙を終えオショー・ラジニーシは再び講話を行うようになった[関係者 2][要ページ番号]。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、オショー・ラジニーシの存在は脅威的だった[関係者 2][要ページ番号]。なぜなら、オショー・ラジニーシは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ[関係者 2][要ページ番号]。オショー・ラジニーシは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った[関係者 2][要ページ番号]

1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンから出て行き、FBIが介入し捜査を行い、彼女らがコミューン内外で数々の犯罪、不法行為をしてきたことが明らかになった[38]。不法行為には、オショー・ラジニーシとその世話人の部屋の盗聴、オショー=ラジニーシ運動の資産5500万ドルの横領、オショー・ラジニーシの主治医スワミ・デヴァラジ(ジョージ・メレディス)に対するヒ素による殺人未遂、近隣レストランでのサルモネラ菌混入によるバイオテロ(住民約750名が食中毒、うち45名が入院。ラジニーシ事件)、公共施設の放火などが含まれていた[64]。シーラ達は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、アメリカで服役した[64]。オショー=ラジニーシ運動によるこのバイオテロの事件は、近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる[80]

州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをオショー・ラジニーシは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった[関係者 2][要ページ番号]。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった[81]。燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港で、1985年10月28日オショー・ラジニーシは逮捕状なしに逮捕された[81]

逮捕後、司法取引が行われ[81]、オショー・ラジニーシは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めること、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日に出国した[82]。オショー・ラジニーシの弁護士は、この選択は、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いてオショー・ラジニーシの生命と健康は脅かされるため、一部の罪状を認めて国外退去になったほうが良いと考えたためだと主張している[関係者 3][要ページ番号]

後になって、オショー・ラジニーシと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属のタリウムを盛られた可能性を疑った[関係者 2][要ページ番号][† 6]

1985年にアメリカから国外追放されたあと、オショー・ラジニーシは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした[27]。1986年3月19日ウルグアイが思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしオショー・ラジニーシをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、オショー・ラジニーシ一行はウルグアイを去らなければならなかった[本人 1][要ページ番号]

インド 第2期プネー

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1986年7月にインドのムンバイに移り、1987年1月にプネーに戻り[83]、プネーが再びに運動の本拠地になった[84]。プネーへの移転は、教団にとって特別な場所への移転であり、これ以降に、名称の変更(バグワン・シュリ・ラジニーシからオショーへ、ラジニーシ運動からオショー運動へ)、リーダーシップ構造の再編成(アシュラムの脱制度化[47]、「インナーサークル」の設立)、新しい実践と運動の展開のために教義を再構築することを成し遂げ、運動は自己変革に成功した[35]

プネー移転後の3年間ほぼ毎日の講話を行って、年間約1万人がアシュラムを訪れた[85]。1987年以降の講話のテーマはすべて禅語録から取られ、その影響か、この時期は日本人の訪問者が増加している[85]。宗教学者のマリオン・S・ゴールドマン英語版は、オショー・ラジニーシと信奉者たちは、アメリカでの大失敗の原因はシーラとそのグループだとすることで変革を進め、この運動を、個人の成長と現世で達成感を得るための瞑想的アプローチをすべての人に提供する運動として位置付け直したと述べている[35]。少数のメンバーの多額の献金と他の何百人もの信奉者たちの献身で資金ができると、アシュラムを瞑想リゾートに作り変え、運動は回復し始めた[35]

1987年1月19日、オショー・ラジニーシは、政治権力による弾圧から弟子たちを守るために、サニヤシンであることが一目で判別できるマーラとオレンジ系統の衣装をはずすようにと語る[本人 1][要ページ番号]

1988年7月、この14年で初めて、夕方の講話の終わりに自ら瞑想を指導し始めた[関係者 4]。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる新しい瞑想テクニックが導入された[関係者 4]。同年5月26日、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する[本人 1]

1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をオショー・ラジニーシと呼ぶようになった[official 1]。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル財団改めOSHOインターナショナル財団が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った[official 2]

コミュニティのリーダーシップにも重要な変化があり、オショー・ラジニーシは1989年に21人の弟子からなる「インナーサークル」と呼ばれる委員会を設立し、彼らが運営の実務を担った[31]。インナーサークルは、議長のジェイエシュ(マイケル・オバーン)、副議長のアムリト(主治医のジョージ・メレディス、旧名スワミ・デヴァラジ)、書記のアナンドが中心となっている[31]

1990年1月2週目に入ると、オショー・ラジニーシの身体は著しく弱まる[関係者 4]。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる[関係者 4]。1月19日彼の脈拍が不規則になる[関係者 4]。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、オショー・ラジニーシは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える[関係者 4]。彼は午後五時に肉体を離れる[関係者 4]1990年1月19日、オショー・ラジニーシは心臓発作で59歳で死去した[86]。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた[本人 1]。そして、その旅立ちを祝うサニヤシンたちに送られながら茶毘にふされた。

コンテンツ

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オショー・ラジニーシは瞑想の分野で今も世界中で知られ、未だに出版されており、書籍には社会的、政治的な論評も含まれる[56]。彼の本のほとんどは講話の録音を書き起こした講話録で[87]、650冊以上の書籍が彼の作品とされ[88]、講話録は世界中30か国語以上で翻訳出版されている[89]。人間という存在の様々な側面に関する彼の見解が示されている[87]

プネーの組織は長期にわたる訴訟に敗訴し、アメリカで「Osho」という商標は取り消されたが(後述)、彼の講話や瞑想ガイドをまとめた何千もの本の著作権は、スイスのチューリッヒにあるOSHOインターナショナル財団が依然として所有している(同財団はプネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートと提携している)[35]

思想と活動

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ロールス・ロイスを運転するオショー・ラジニーシ

オショー・ラジニーシの教えは講話を通じて伝えられたが、学術的なものではなく、ジョークを交えて語られた[90][91]。強調されるポイントは一定ではなく、時とともに変化し、パラドックスや逆説を大いに楽しんでいたため、全体的な内容を要約することは困難だった[92]。彼は悟りを開いた人々の伝統的なイメージとかけ離れた行動をとることを楽しみ、特に初期の講義はユーモアがあり、何事にも冗談交じりで取り組んだことで知られた[93][94]。こうした行動は、いかに気まぐれで受け入れがたいものであっても、人々を「(理性的な)心(マインド)の超越」へと導く「変容のテクニック」であると説明された[93]。人間の究極的な目的は「光明(enlightenment)を得ること」で、真理の探究が第一の優先事項だとされた[95][本人 2]

ラジニーシは600冊近く出版された著書の中で(そのほとんどは彼の講話やイニシエーション・トークの記録)、ほとんどすべての主要な宗教的・哲学的伝統について論じており、それは禅宗を主とするシチューとしてまとまり、人生のあらゆる面を十分に楽しむようにという激励がスパイスとなっていた[96]。個々人の選択がその哲学の本質であったが、悟りの究極の自由に至るには、彼の教えへの「明け渡し(サレンダー)」で自我(エゴ)を消滅させることが必要だった[96]。1990年代の変革後は、「明け渡し」ではなく瞑想が悟りへの架け橋として定義されるようになった[96]

ジャイナ教ヒンドゥー教ハシディズムタントリズム道教シク教スーフィズムキリスト教仏教を含む主要な霊的伝統について、東洋と西洋の様々な神秘主義者について、ウパニシャッドグル・グラント・サーヒブなどの聖典について語った[97]。社会学者のルイス・F・カーターは、彼の思想がヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタに基づくと見ており、そこでは、分離し、二元的で、一時的な人間の経験は、すべてが神聖で絶対的な価値を持ち、それ自体が執着点である宇宙意識(cosmic consciousness)のダンスや遊びの一種であると考えられている[98]。同時代のジッドゥ・クリシュナムルティはラジニーシを認めなかったが、両者の教えには明らかな類似点がある[92]

西洋の思想も幅広く取り入れた[97]対立物の統一英語版に対する彼の信念はヘラクレイトスを思わせ、一方で、無意識神経症的パターンに従って無力に行動する機械という人間の描写は、ジークムント・フロイトゲオルギイ・グルジエフと多くの共通点を持っている[92][99]。因習の縛りを超越した「新しい人間」というビジョンは、フリードリヒ・ニーチェの『善悪の彼岸』を彷彿とさせ[100]、彼の性的解放の促進はD・H・ロレンスと比較することができる[101]。そして彼の「ダイナミック(動的な)」瞑想は​​、ヴィルヘルム・ライヒに負っている[102]

ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシの哲学は因習を打破しようとするもので、折衷的でしばしば矛盾して見えるが、その核心にあるのは「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想であると述べている[103]。オショー・ラジニーシは、他の宗教が物質的なものと霊的なものを分離しようとするのに対し、完全に悟りを開いた存在は、『その男ゾルバ』の主人公のギリシャ人ゾルバの感覚的な享受と生への欲望と、仏陀スピリチュアリティと超越的な洞察力とを併せ持つと主張した[103]。彼が説いた新しい理想の人間像は、世俗的なものと神聖なもの、科学的なものと神秘的なものを統合し、物質と魂の両方を全面的に支持する人間というもので、禅、タントラの伝統、繁栄のスピリチュアリティが融合しており、そのビジョンは多くの特権的なアメリカ人を魅了した[96]

反社会主義・グローバル経済支持

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オショー・ラジニーシは高校時代に社会主義に深く興味を持っていたが、その後、経済システムとしての社会主義に次第に幻滅していった[66]。1960年代後半までに彼の社会主義に対する疑念は、その知的基盤と、現代インドにおける社会的・経済的・倫理的影響に対する非常に厳しい批判に発展した[66]。著書『Beware of Socialism !(社会主義に用心せよ!)』 (1978年)では包括的な社会主義批判が行われたが、1960年代後半から死去するまでの彼の講話全体に同様の見解が見られる[66]。彼は社会主義を主に、貧しい持たざる者たちが、苦労して自らの力で豊かになった裕福で勤勉な人間に対して抱く嫉妬に基づくイデオロギーとみなし、非難した[66]

オショー・ラジニーシは、社会主義は富を貧困者に分配するという「不自然な」試みに基づいているが、資本主義は、干渉的な国家や無能な官僚の介入なしに資本が成長する、社会主義よりはるかに「自然な」イデオロギーであると考え、経済成長の妨げは政府であり、政治家は経済成長の邪魔をする無能な「愚か者」の集まりに過ぎないと批判した。彼にとって、資本主義は自由に関するものであり、「資本主義は、あらゆる種類の人々に、人生のあらゆる過程において、成長し自分らしくあるための完全な自由を与える人道的なシステムである。…資本主義の終焉の鐘は、結局は人間自身の終焉の鐘となるかもしれない。」と語り、ロックフェラー家のような成功した資本家が残りの民衆に富を分配することで、真に公平で永続的な「社会主義」社会が創造されるとした[66]。彼はインドにおけるアメリカ式資本主義の初期の提唱者であり、マハトマ・ガンディーの禁欲主義、質素さ、国家主義を否定し、「私にとって、アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど危険ではない。アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど暴力的ではない。」と語り、グローバル資本主義、物質主義、繁栄を支持する、一種の「反ガンディー」として活動した[66]

彼は同時代の他の国際的なグルにように、ヒンドゥー・ナショナリズムを主張したことは一度もなく、国際資本主義を信奉し、近代技術と西洋資本主義と共に、性欲と肉体的快楽を受け入れる、新しい種類の官能的なスピリチュアリティを主張した[66]

自我と心

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オショー・ラジニーシは、人間の究極的な目的である光明を得た状態、「本来の自分」とは、人々の真の個性が全面的に開花し、自己が宇宙全体から分離していない意識状態であり、虚偽の実存である人間の自我(ego)が最大の障害になるとする[95]。自我は教育、社会的条件づけ、社会化によって増進していくとみなし、親の教育や学校教育、道徳的、宗教的な教えなど全ての教育は、特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型にはめこむと考えて、既存の教育全てを激しく批判した[95]

また、特に組織宗教やその指導者を激しく批判した[95]。批判のポイントは、従来の組織宗教の多くが彼岸(あの世、死後)での目的達成を掲げているため、生きているこの世界での世俗的な人生を全体的に享受し、スピリチュアルな成長の機会とすることが妨げられること、オショー・ラジニーシは性的エネルギーを本来自己変容の機会であるとみなしているが、彼らはそれを否定し性をタブー化していること、権威主義的な宗教組織の制度が、本来内的体験から見いだされる宗教的エッセンスを見失わせることである[95]

オショー・ラジニーシは、固定された永続的な自己やアイデンティティという考え自体に異議を唱え、絶えず移り変わるアイデンティティという逆説的な理想を掲げた[61]。固まった考え方、正統性、そして何より宗教的教義に抵抗し、常に流動する「流動的な人間」である「新しい人間」の誕生を呼びかけた[61]。光明を得る妨げとなる自我を落とすためには、「いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくこと」が必要だとし、「過去や未来に煩わされることなく『いま、ここ』で覚醒する」ことを強調している[104]。サニヤシン達は、理性重視の「マインド」という言葉をしばしば否定的に用いる[105]

ポストモダニズムは、目的、計画、決定性といった理想より、遊び、偶然、皮肉、不確定性を強調する点を特徴とし、この断片化、遊び、不確定性という特徴は自己・主体という概念にまで及んでいる[61]。ヒュー・B・アーバンは、このような人間像を理想としたオショー・ラジニーシは、おそらく20世紀初の「ポストモダンのグル」であると評している[61]。ダンスはオショー・ラジニーシが説いた独自のスピリチュアリティの中心の一部であり、ダンスが流れるような瞑想として完璧に行われると、踊り手の自我はフロー体験に溶け込んで消え去り、ダンスだけが残るとされ、こうした理解は仏教の「無我」等の伝統的な宗教的概念とポストモダンの「主体の死」の巧みな融合となっている[31]

また彼自体が、流動的で移り変わりやすく、時に矛盾した人物であり、その時々、それぞれの聴衆に合わせた複数のアイデンティティがあるかのように見え、伝記を再構成する上での難しさとなっている[61]。オショー・ラジニーシは、自身のアイデンティティの中には、今の人生よりも前の、何世紀も前の過去生(前世)のものも含まれると語っている[61]。初期の弟子たちは彼のことを、狂人、救済者、詐欺師、聖人の、移り気な混合体として表現した[35]

揺さぶり、衝撃による目覚めの促進

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真の「師」とは、いい気持ちにさせたり、すべての答えを与えたりする人ではなく、むしろ、混乱させ、自問自答させ、激しい内面の葛藤を引き起こす人物だと語り、人間はみな本質的に霊的であり、仏陀でさえあると繰り返し説き、「仏陀の仕事とは何か?私たちを揺さぶることだ。私たちが意識のある生活だと勘違いしている昏迷の状態から、私たちの本性である悟りの意識への、突如とした恍惚の気づきへと、私たちに衝撃を与えることだ。」と語った[61]。ヒュー・B・アーバンは「ラジニーシの大胆で時に衝撃的なテクニックの目的は、一種の催眠解除であり、しばしば矛盾や混乱を招くようなやり方で、私たちに衝撃を与えて目覚めさせることにある」と評している[61]。人間は狂っているのだから、狂的なテクニックだけが、その平凡で快適な生活を揺さぶり、狂気の浄化を助けることができるとされた[61]

ラジニーシの時に衝撃的な考えは、現代チベット仏教のチョギャム・トゥルンパや、アメリカ人のグルアディ・ダ英語版、同様に精神的なショックの戦術とユーモア・パロディ・自由な性的実験を組み合わせた他の現代の「狂気の智恵(crazy wisdom)」の師たちの教えと多くの共通点があるが、オショー・ラジニーシがこうした霊的指導者で最も重視していたのは、物議を醸したアルメニアカリスマ的な神秘主義者ゲオルギイ・グルジエフである[61]。オショー・ラジニーシが大きく影響を受けた人物として挙げたのは少数だが、グルジエフをお気に入りの一人としており、過激な因習打破の教え、宗教や政治の正統性を挑発することに一種の喜びを感じていたこと、教え・実践の折衷性、ほとんどの人間は半ば眠っており人生は機械的な反応に過ぎないという理解、身体と感覚に重点を置き肉体的実践を重視したこと、信者たちを揺さぶり衝撃を与えることで目覚めさせようとするスタイルなど、両者には多くの基本的な類似点がみられる[61]

善悪の価値判断の相対化

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伊藤雅之は、オショー・ラジニーシの世界観はホリスティック(全体論的)であり、他のニューエイジの言説と同様に、「善悪の価値判断(倫理)を相対化する傾向」があると指摘している[106]

オショー・ラジニーシやニューエイジに見られる「いま、ここ」を重視し、善悪の判断基準を相対化する態度からは、自分の「瞬間、瞬間の行為が正しいかどうかを、既存の価値基準を使わずにいかに判断するのか」というジレンマが生じる[107]

伊藤雅之は、「ラジニーシが掲げる『何の価値観ももたずに、いま、ここで覚醒する』という主張は、特定の規律や倫理的基準を与えず、むしろそれを否定する傾向にある。ということは、担い手たちがスピリチュアリティを追求する際に、具体的に『何をするのが正しいのか』に関する一定の見解は与えられず、物事に対するさまざまな解釈を容認する結果となってしまう。ORMの諸活動、特にオレゴン期の問題へのサニヤシンの判断力の欠如には、(社会的条件づけの結果である)既存の価値観に基づいて善悪を判断することへの躊躇が関連していたと思われる。元来は、社会からの拘束や罪悪感から個人を解放するために掲げられた『いま、ここを生きる』という理念も、特定の状況下においては逸脱的な行為を容認してしまう可能性を招くのである。」と指摘している[108]。少なくないサニヤシンが、シーラらオショー・ラジニーシの側近は意識レベルが高い、悟りに近い存在であると捉えていたが、事件後は等身大の人間として扱い、権力や金に目がくらんで罪を犯した等と理解するようになった[109]

伊藤は、オレゴンでの一連の事件に対するサニヤシンの態度は、「組織を疑いつつラジニーシを信頼するという状態にとどまり続けている者が多い」と述べ、オショー・ラジニーシが幹部らの犯罪に関与していた、または関与していなくても知っていた可能性が十分にある状況で、それでもサニヤシンが彼への信頼を失わなかった理由として、「ラジニーシが光明を得たマスターであるという揺るぎのない確信」があり、悟った人を一般人が判断できないというロジック、悟った人の行動は自分の経験や価値観を超えている可能性があるという考慮を挙げている[110]。こうした態度には「マスター」への強い感情的絆が伴っており、オショー・ラジニーシの導きで意識変容、自己変容を体験したことが大きい[110]。伊藤は、オショー・ラジニーシを「計り知れない存在」と捉えることは、悟った人を一般常識や先入観で判断することを戒めてきた彼の講話の影響であり、「ORMでの経験を通じて体得した、サニヤシンの存在理由に関わる態度」だと指摘している[110]

スピリチュアルな体験で深まったサニヤシン達のオショー・ラジニーシへの信頼、感情的絆は、他者への無関心な態度と裏表である[111]。伊藤は、「当事者たちの個的なレベルにおいては自己変容したわけだし、事件のことは自分とは関係ない」というサニヤシンの論理について、「これは一般社会からすると脅威でもある」と述べている[111]

瞑想とセラピー

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瞑想を単なる修行としてではなく、全ての瞬間に維持すべき意識状態、信念と期待によって条件付けられた機械的な反応の眠りから人間を目覚めさせる完全な気づき(アウェアネス)として提示した[112][113]。彼は心理的・感情的パターンへの気づきのために、瞑想の準備段階として西洋の心理療法を採用した[114]。オショー=ラジニーシ運動における瞑想やグループ・セラピーの目的は、他のニューエイジの実践と同様に、「社会や文化の影響によって鋳型にはまってしまっている自己を解放し、瞬間、瞬間を覚醒して生きること」であるとされる[105]

オショー・ラジニーシが勧めたセラピーの大半は、1960年代から70年代にヒューマンポテンシャル運動で開発されたものに由来しており、多くのセラピストが新しい可能性を求めてインドのアシュラムに集まりセラピーを行った[26]。直接肉体にアプローチするセラピー、幼少期の自分を再体験するセラピー、関係性や性のタブーを見つめなおすセラピーなど、様々なものが行われたが、伊藤雅之によると、セラピーの主要な目的は2つで、第1は「怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすること」、第2は「『ありのままの自分』を受け入いれ、気づきを高めていくこと」である[115]

意識変容を促進する手段として、オショー・ラジニーシは全部で100以上の瞑想技法を提案した[112][113][64]。東洋の伝統では静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた[64]。その「アクティブ(動的な)瞑想」の技法は、静寂に至る身体活動の段階を特徴とする[114]

この中で最も有名なのは、1970年4月に提唱されたダイナミック瞑想で[114]、インドとヨーロッパのテクニックを融合させたもので、インドの瞑想法の一側面と、グルジエフ、ポスト・フロイト派の精神分析、エンカウンター・グループニューエイジのスピリチュアリティなど、「狂気の智恵(crazy wisdom)」の教師たちが持つ要素を組み合わせたもので、アーサー・ヤノフの原初療法やヴィルヘルム・ライヒのライヒ療法などの西洋の心理技法に明らかに影響を受けている[66]。人間の習慣的な思考と行動のパターンに衝撃を与えるようにデザインされている[66]。この技法は今日にまでオショー=ラジニーシ運動の中核をなす実践法であり[116]、彼の哲学と方法全体の一種の縮図だと言われている[116]。「私のダイナミック瞑想の技法は、あなたの神経症をありのままに受け入れ、解放しようとするものである。この技法は基本的にカタルシスから始まる。隠されたものは何でも解放されなければならない。…あなたが 『意識的に狂気』にならない限り、決して正気になることはない。[66]

この瞑想は目を閉じるか目隠しをした状態で行われ、5つの段階から成り、そのうちの4つは音楽を伴う[117]。まず瞑想者は10分間、鼻からの速い呼吸を行う[117]。後半の10分間はカタルシスを得るためのものである。「何が起きても、起こるままに任せなさい。…笑う、大声を出す、絶叫する、飛び跳ねる、揺れる、あなたがやりたいと感じたことは何でも、それをやりなさい!」[114][117](この段階は、1970年に広く普及し始めた原初療法によく似ている[66])。次に10分間、両手を上げてジャンプし、足裏が地面に着くたびにフー!と叫ぶ[117][118](「フー」はスーフィズムの言葉で、イスラム教の神の名前の1つで「彼」を意味する[66])。次の段階は沈黙であり、瞑想者は突然完全に動きを止め、15��間完全に動かずに、起こっていること全てを観察する[117][118](オショー・ラジニーシは、この段階がグルジエフに触発されたものだと認めている[66])。最後の段階は、15分間の踊りと祝賀である[117][118]

クンダリーニ「シェイキング」瞑想やナーダブラーマ「ハミング」瞑想など、他の動的な瞑想技法も開発したが、これらの瞑想技法はある種の身体的な活動も含むものの、それほど動的なものではなかった[114]。彼はまた、弟子たちに無意味な音をただしゃべらせるギベリッシュ・セッションを主催したが、彼によれば、これは心のゴミを一掃し、リラックスさせるものである[119][120]。彼の後期の「瞑想療法」は数日間のセッションを必要とし、オショー・スティック・ローズは、1週間は毎日3時間笑い、2週目は毎日3時間泣き、3週目は3時間黙想することからなる[121]。これらの「起こっていることを見ること」のプロセスは「気づき(アウェアネス)への跳躍」を可能にするという[114]

最初のインド時代のプネーのアシュラムでは、光明を得る手助けとしてかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーは全裸になるよう求められ、エンカウンター・グループの中では他の参加者への肉体的暴力が許されることもあり、怪我や骨折で病院に連れていかれた者もいたと言われ、タントラ・グループではセラピー内で相手を探しセックスすることが求められ、数日間のセラピーで複数の相手とセックスすることもありふれていたという[29]。こうした実験的なセラピーの採用は、オショー=ラジニーシ運動の特徴となっており、他の成長センターで行われたセラピーとは大きく異なり、強烈なものだった[122]

スーザン・J・パーマー(Susan J. Palmer)とフレデリック・バードは、ラジニーシプーラムの時代、こうしたセラピーは、儀式を通じて新しいメンバーのタブー意識を破壊し、新しいアイデンティティを構築させ、コミューンのオルタナティブな性倫理を教育し、メンバーをコミュニティに迎え入れる機能を持っていたと考えている[123]。また、オショー=ラジニーシ運動に見られるエサレン風のヒューマニズムと東洋風のグル崇拝は両立し難いものだが、グループ・セラピーが、個人主義的な癒しの重視と、共同体的な信心重視の間の絶え間ない葛藤を解消する場になっていたとみている[123]

あらゆる境界の破壊

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最初のプネーのアシュラムは徐々に暴力的、権威主義的になっていったが、オショー・ラジニーシはアシュラムにおける自由の欠如と暴力の容認について、あるサニヤシンから直接質問され、アシュラムは決して民主的なものではなく、極めて独裁的なもので、自分が決めたことは絶対だとはっきり述べている(やり取りは1978年に同団体の雑誌に掲載された)。彼はまた、こうしたグループ・セラピーの一部にある暴力や性的実験は、あらゆる境界を根本的に破壊し、完全な精神的解放をもたらすために必要だと説明し、アシュラムを去るか、何に参加するかは当人が選ぶことだと諭している[9]。オショー=ラジニーシ運動の中で育ったティム・ゲスト英語版は、あらゆる境界を見つけて立ち向かい、そのためなら、泣いても叫んでも、喧嘩でもセックスでも、何をしても許されたと語っている[66]

タントラと性愛

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ヒュー・B・アーバンによると、欧米で再解釈された現代のタントラの世界的普及で最も大きな役割を果たしたのはオショー・ラジニーシである[103]。彼はインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた[10][65]

1968年の講義に基づく『From Sex to Superconsciousness(セックスから超意識へ)』はセックスをテーマにしており、1960年代後半以降の彼の講話には、性的なテーマが一貫して含まれている(現在の Osho出版社は、「Sex Matters(セックスの問題)」(2003年)、 「The Science of Tantra(タントラの科学)」 (2010年)、 「Tantra: The Way of Acceptance(タントラ:受容の道)」 (2011年)、『Tantric Transformation: When Love Meets Meditation(タントラ的変容:愛が瞑想と出会うとき)」(2012年) などの書籍やDVDとして、性的テーマを扱った講話を継続的に再パッケージし販売している。)[9]

オショー・ラジニーシはカリフォルニアのエサレン協会などのニューエイジ・センターで広��っていたアメリカ風のタントラと性的解放の理想に強く影響を受け、ヒンドゥー教と仏教のタントラの側面を、アメリカのニューエイジ運動にあった現代の心理学、精神分析理論と技法と統合し、伝統的な南アジアのタントラを再定義し、性愛と性的快楽、オーガズム(性的絶頂)の原始的な力を究極の神性の源、一種の「超意識」に変えることに主に焦点を当てた独自の「ネオタントラ」を創り出した[103][124]

オショー・ラジニーシの考えでは、タントラ(ネオタントラ)とは、単なる肉体と精神の完全な統合への道ではなく、宇宙的な究極のオーガズムへの道でもなく、むしろ革命的でありうるスピリチュアルな道であり、組織的なヒエラルキーや確立された権威のない宗教というビジョン、個々の人間の至高の神性のみに基づく宗教のビジョンを提供するものでもある[9]。セックスは人間の本性の中で最も深く激しい衝動であり、宗教者、政治家、支配者たちは、人間を従わせ、奴隷にするために、セックスを激しく抑圧してきたとし、タントラは、性欲を受け入れ解放する唯一のスピリチュアルな道であり、宗教的・政治的な支配を受けることのない非常に深い自由を人間にもたらすとした[9]

性的抑圧と社会的・政治的支配は密接に関係しており、従って性的解放が社会的・政治的変革の究極の源泉だとする彼の考えは、精神分析家で心理療法と代替医療における「身体ムーブメント」の最重要人物であるヴィルヘルム・ライヒや、初期のヘルベルト・マルクーゼなどのポスト・フロイト派の理論家たちの思想を明らかに反映している[9][103]。オショー・ラジニーシはフロイトやライヒのようなポスト・フロイト派に倣い、セックスは「人間の最も強力な本能」であり、人間の本性における最も原動力であり、最も悪い神経症と最も崇高な霊的体験の両方の源であると繰り返し述べている[9]。「セックスはとても重要だ。なぜなら、自然全体がセックスを求めているからである。そうでなければ、人間は存在し続けることができないだろう。セックスが個人の意思によるものなら、地球上には誰も残らないだろう。セックスはとても強迫観念的で、已むに已まれぬもので、性衝動が強烈なのは、自然全体がセックスを求めているからである。[9]

またヒュー・B・アーバンは、彼の性愛に関する教えは、カーマ(欲望、快楽、官能)に関する古いインドの見解と、フロイト以降の精神分析学の融合であると評している[9]。オショー・ラジニーシの性愛の理解とタントラの再定義は、ライヒの研究に大きく依拠しており、クンダリニーは肉体に潜在する一種の原始的な性的エネルギーであるというオショー・ラジニーシの考えは、肉体を巡る生来の性的パワーであるオルゴン・エネルギーというライヒの概念と非常に似ている[103]。オショー・ラジニーシはライヒのことを、東洋の源泉とは独立してタントラ・セックスの秘密を発見した一種の西洋のタントリストだと認識していた[103]。オショー・ラジニーシとライヒの深いつながり、特にセックスに関する考え方は、一種のグローバルな拠点であった初期のプネーのコミュニティが持つ重要な特徴のひとつであり、1970年代の多くの西洋の求道者にとっての主な魅力でもあった[9]

オショー・ラジニーシの反社会主義的で資本主義推進的な尖った経済的理想と同じように、彼のタントラは、一種の激しい個人主義、反正統主義、そして利己主義に基づいている[9]。人間は皆本質的に神聖な存在であるため、他の人を助けようとする前に、まず「完全に利己的になり」、自分自身を受け入れなければならず、そうして初めて利他的になれるとする[9]。タントラは完全な自己受容の道であるとされ、彼のネオタントラの最終的な目標は、その人が完全に悟り、解放され、「神のような」存在になることである[9]。官能と霊性・精神性は相反するものではなく、むしろ肉体的快楽はスピリチュアルな生活の一部になると教えられ、オショー・ラジニーシの共同体では、セックスだけではなく、音楽やマッサージ、女性の脚の間から熟したマンゴーを食べることまで、様々な官能的な活動を「意識的に」行うことが奨励された[9]

コミューンでは女性も男性も、複数の異性と短期的・多元的な恋愛関係を持つことが奨励されていた[125]。スーザン・J・パーマーは、これは共同体における愛のシェアと平等の理想を表現したものであり、情緒的でエロティックな感情は、カリスマによる共同体を流れるオショー・ラジニーシの「エネルギー」の通路であり、個人を悟りへと導くものだった、と説明している[125]

1960年代から1970年代にかけて、タントラはカウンターカルチャーと性革命の重要な一部となり、 オショー・ラジニーシ等の有名なグルが「ネオタントラ」の実践を推進し始め[103]ニューエイジ自己啓発運動の中で広まった[124]。彼のような西洋人を弟子にしたインドのグルや、アメリカ人ヨーガ行者のピエール・バーナード英語版のような西洋のタントラ指導者は、セックスと瞑想を融合したエキゾチックでエロティックな慣習という西洋人的なタントラ文化のイメージにどちらも賛同している[126]

ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシは、自身のネオタントラが、南アジアの伝統的なタントラの形態とほぼ共通点がなく、現代的な再解釈だということを認識していたようだと述べている[9]。オーガズムの力をスピリチュアルな体験を得るための最高の手段として利用していることが示唆されており、ネオタントラでは、タントラ的オーガズムの瞬間に、「統一された首尾一貫した自我」という幻想が消え去り、自己という虚構は生命エネルギーと欲望の戯れに満ちた流れであることが明らかになるとされる[9]。こうしたネオタントラ的な性的オーガズムの理解は、ポストモダンにおける「主体の死」の極端な表現の一例となっている[9]

師弟関係

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インドにはグルと弟子の伝統英語版(グル・シッシャの伝統)があり、インドのほとんどの宗教的指導者は、グルとのつながりや、はるか過去に遡る神話的な系譜、シヴァ神、ヴィシュヌ神、女神などの神とのつながりによって自らを確立していたが、彼は師を持たないことを誇らしげに公言した最初の一人だった[61]。自らを一種の「反グル」「グルを持たないグル」として、確固とした師の系譜を持たない、根本的に反権威主義的なメッセージを教える悟りを開いた存在として示した[61]

オショー・ラジニーシは思想家からグルに転身したが、当初のインド人の弟子が実践した弟子の条件やグルへの帰依は、インドの宗教伝統に基づいたものだった[60]

オショー・ラジニーシはグルと弟子の一対一の師弟関係を肯定・強調し、それが光明を得る手助けになると主張し、「サニヤシンがより『自分自身になる』道を開くため」とされた[127][106]。彼が説く師弟関係はグルへの絶対帰依ではないとされる[26]。「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すと主張した[106]

彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)と呼ばれている[106]。「サニヤシン」という語はもともと、インドの宗教的慣例に従って家庭と世俗を捨てた修行者のことだが、オショー・ラジニーシは世俗を離れるのではなく、現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した[106]。「サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもない」とし、「明け渡し(サレンダー)」について、自我は観念にすぎないため、弟子は師に自我を明け渡すことで特定の何かを明け渡しているわけではなく、自分が持っていると信じている実際には存在しないもの全てを明け渡していると説明している[106]

1970年代後半から1980年代前半にかけて、サニヤシンとなった者は、オショー・ラジニーシを自分のスピリチュアルな師として認め、その教えへのコミットメントを誓い、サニヤシン名(全く新しい名前か、単に「マー」や「スワミ」という接頭辞をつけた名前)をもらい、毎日1回瞑想し、赤とオレンジ(光のスペクトルの太陽の色)を身にまとい、ベジタリアンになり、彼の写真のロケットをつけた108個の球の数珠を身につけることが要求された[35]

オショー・ラジニーシの弟子たちは、自分たちを 「バグワンの恋人たち(lovers of Bhagwan)」と呼んでいだ[125]。スーザン・J・パーマーは、スピリチュアルな探求と師の存在によって呼び起こされたサニヤシン達の心酔の感情は、性的な欲望やロマンチックな愛と結びついていたと述べている[125]。サニヤシン達はオショー・ラジニーシを「悟りを開いた者」として「性を超越した存在」と捉えていたが、サニヤシンがイニシエーションの儀式で彼に「明け渡し」、彼のエネルギーを受け取る際の関係においては、男性として認識されていた[125]

理想的には、サニヤシンたちはオショー・ラジニーシの思想に服従する必要はないとされるため、彼の弟子たちは「信者」と呼ばれることを嫌う[106]。しかし伊藤雅之は、にもかかわらず、「その世界観を具現化するためのアシュラムや各種の活動のなかには、ラジニーシの教えと矛盾する内容もしばしばみられた。(中略)また、ラジニーシの支持者にも、ともするとラジニーシを教祖として崇拝し、その教えを絶対的なものとして盲信する傾向がみられた。」と指摘している[127]

運動が比較的小規模だった1974年以前は、オショー・ラジニーシは弟子達が宗教に対する多くのアプローチを探求し、彼の修行と他の修行を組み合わせることを奨励していた[35]。彼ら元々の生活、元々のアイデンティティを放棄したり、以前の人間関係を犠牲にしたりすることなく、自分自身を変革することができるとされていた[96]。運動が成長し、プネーのアシュラムに移ると、オショー・ラジニーシは悟りを開いたスピリチュアルな師の役割を担うようになり、サニヤシン達は他のスピリチュアルな道を放棄するよう求められるようになった[35]。最も物議を醸した1976年から1986年までの10年間は、オショー・ラジニーシにのみ帰依することが求められた[35]

結婚・家族・出産制限

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オショー・ラジニーシは、環境の調和、技術の進歩、厳格な出産制限、瞑想的な意識を特徴とする「女性のニューエイジ」を予言し、家族は本質的に機能不全と破滅に陥りやすいと考えており、運動は常に子供を持つことに強く反対してきた[125][128]。オショー・ラジニーシが結婚や子供を持つことを奨励していないことは広く知られていた[128]。彼は地球の人口過剰を理由に「20年間の絶対的な出産制限」を推奨し、悟りを得るために、「自分自身を産む」ために、独身で子供を持たないことが賢明だとされた[125]

アメリカのオレゴンやイギリスのコミューンで子供が生まれることはほとんどなく[129]避妊不妊手術(断種)、中絶が受け入れられていた[130]。プネーのアシュラムでは、指導者の間では不妊手術が一般的に行われており、特に男性は、手術による身体的負担が少ないため不妊手術が行われていた[125]。活発な性生活を送る4000人の住民がいたラジニーシプーラムでは、設立から4年たっても一人の子供も生まれなかった[125]

女性のサニヤシンは、妻や母親の役割を拒否する傾向がある[125]。宗教学者のサラ・M・パイク英語版によると、オショー=ラジニーシ運動に参加した親の中には、スピリチュアルな成長の方が重要だという理由で、子供を置いて家を去り、アシュラムに入ることを正当化した者もいた[130]

サニヤシンのパートナー観

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サニヤシンにとっての主要な関心は自己変容であるため、パートナーとの関係においても、相手を幸せにする、子供を産んで幸せな家庭を築くといった既存の価値観を理想とせず、その関係を通した自分自身の内的成長が重視され、こうした独特のパートナー観はセラピーを通して強化される[131]。サニヤシンは、パートナーと一緒に暮らしながらも結婚しないライフスタイルが一般的である[131]。オショー=ラジニーシ運動では、瞬間、瞬間を自分の感情に完全に正直に生きることが理想だと考えられ、たとえ恋人がいても、この瞬間に別の人に恋に落ちてもおかしくないので、長期的・永続的なパートナーとの関係性を重視しない[131]。長期的・永続的な関係性を重視しないことは、(生涯独身だった)オショー・ラジニーシの生に対するアプローチと深く関係がある[131]。伊藤雅之によると、サニヤシンの間では、浮気をした人より、浮気されて嫉妬する人の方が、「関係性に執着している」として批判される傾向がある[131]。伊藤は、こうした態度は一般的な日本人の価値観にも反するが、ニューエイジ思想一般ともやや異なるようだと述べている[131]

女性の評価・待遇

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オショー・ラジニーシは、女性は生まれつきより大きな性的エネルギー(シャクティ、つまり女性の力)を持っているため、多くの点で本質的に男性よりも優れており、「女性は何度もオーガズムに達することができるが、男性はできない」という事実によって証明されるとした[9]。彼の体系では女性は男性よりも霊的・精神的に優れているとみなされ[125]、「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価した[132]。女性にこうした「女性らしさ」の特質を求めることは、「退行的で時代錯誤的」であるという批判もあった[132]。母性のもう一つの道、女性に開放をもたらすものだと感じる女性も多かった[132]。女性の時代が到来しようとしており、女性の自由は、西洋の「女性解放のような愚かな運動では実現できない」とし、女性の仏陀を数名でも創ることができれば女性はすべての束縛から解放されると語った[9]

オショー・ラジニーシの女性の弟子にとって、「恋人」という役割は非常に重要で、1980年代には、献身的な弟子や「バグワンの恋人」になるためにはコミューンに住む必要があった[125]

この運動は女性がかなり多く、様々な推定によると、運動の初期の歴史において女性の割合は 3:1 から 3:2 の範囲で男性を上回っていた[9]。オショー・ラジニーシは、女性は帰依者としてだけでなく管理者と優秀だと考えたため、教団の重要な地位に多くの女性が付いており、これは他の宗教にはあまりみられない[132]。インドのアシュラムでは、「パワーレディ」と呼ばれる女性の中核グループが執行部の地位を占めており、アメリカのラジニーシプーラムでは、女性が指導的地位の80パーセント以上を占め、彼女たちリーダーは「ママ」または「スーパーママ」と呼ばれ、マスコミはその権威構造を「マ・アルキー(ma-archy、マの政体)」と呼んでいた[125]。マ・ヨーガ・ラクシュミーやマ・アナンド・シーラ等のパワフルな女性たちが重要な役割を果たし、彼女たちには、女性に対しては異例ともいえるスピリチュアルな権威が与えられており、オレゴン州のラジニーシプーラムのコミューンでは、オショー・ラジニーシが沈黙しシーラとその女性の��間が運動の公的な代弁者となることを許可したため、少なくとも目に見える形では、ほとんど女性によって運営されていた[9]。スーザン・J・パーマーは「母権制のユートピア的実験」と評している[125]

パーマーは新宗教における性同一性を、相補的な性(Sex complementarity)、両極的な性(Sex polarity)、単一の性(Sex unity)に分類し、オショー=ラジニーシ運動における性同一性は、両極的な性であるとしている[125]。両極的な性とは、女性と男性は霊的に別のものであり、分離しているという考えで、男性と女性は一体となるべきではなく、一方の性の救済にとって他方の性は不可欠ではなく無関係であると考えるもので、一方の性がより純粋で、より知的で、より神に近いとみなされているため、不平等が常態化する[125]

コミューンではジェンダー役割を逆転させる実験も行われており、男性は「優しい」または「美しい」と評され、女性的な資質を伸ばすよう奨励されたのに対し、女性は「強い」および「ダイナミック」であると称賛された[125]。ラジニーシプーラムの建設中には、性別に基づく仕事の役割が交換され、女性は土木機械を操り、男性はひとり親が連れてきた子供たちの世話をし、キッチンを管理した[125]。ユニセックスのファッション、香水、イヤリングが男女で共有され、バスルームや寝室も男女共有だった[125]

同性愛

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オショー・ラジニーシは、タントラは「無条件の自由」であり、性愛の革命的解放であると繰り返し宣言していたが、性のすべての在り方を受け入れていたわけではなく、特に同性愛については、不自然な倒錯であり、宗教的抑圧の副産物であるとはっきり表現し、かなり強く声高に否定していた[9]。「私は同性愛を倒錯と呼ぶ。…あなたの中には同性愛のための生物学的プログラムはない。あなたの精子の生物学的プログラムは異性愛である。私は単に、宗教の修道院で醜悪なプレッシャーを受けて同性愛が生じ、性的禁欲の清浄さの名の下に同性愛が強要されたという事実を開陳しているだけだ。」と語っている[9]

著作権・商標

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オショー・ラジニーシ自身は1988年の講演で著作権商標の問題にはっきり言及し、瞑想テクニックが著作権で保護されるという考えを否定し、インド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが広め、著作権で保護され商標登録されている超越瞑想(TM)を取り上げ、西洋の企業および法的論理をインドのスピリチュアルな伝統に適用しようとする試みを批判した[53]

「物は著作権で保護できるが、思考は著作権で保護できない。そして、瞑想は当然著作権で保護できない。それらは市場の物ではない。誰も何かを独占することはできない。しかし、おそらく西洋人は、客観的な商品と内なる経験の違いが理解できないのだろう。」「東洋では一万年もの間瞑想が行われてきたが、瞑想に商標を付ける人は誰もいない。そして何よりも、その『超越瞑想』は超越でも瞑想でもなく、単なる商標である。」[53]

オショー・ラジニーシの死後の著作権・商標問題については、#死後の著作権・商標に関する法的紛争を参照。

オレゴンでの犯罪行為について

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マリオン・S・ゴールドマンは、「すべての証拠は、シーラと彼女の小さなサークルだけがこれらの行為(反体制派のサニヤシンへの薬物投与、盗聴、放火、殺人未遂、ラジニーシ運動の資金の横領、住民をターゲットにしたバイオテロ攻撃)に直接関与していたことを示しているが、ラジニーシが彼女たちの犯罪行為を支持していたかどうかは、依然として論争が続いている(All evidence suggests that only Sheela and her small circle were directly responsible for these actions, but Rajneesh's support of their criminality remains in dispute.)」と述べている[96]

セクシュアリティ

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オショー・ラジニーシは自伝的な発言を数多く残しているが、自身のセクシュアリティについて公に語ったことは一度もない[9]

セクシュアリティに関する周囲の理解や証言は一様でない。21歳で悟りを開いてから一度もセックスしていないと信じる者もいれば、毎日2人以上の女性とセックスしていたという者もいる[9]。女性の弟子たちが定期的にオショー・ラジニーシとの、性的な行為を伴うプライベートな、秘密の「特別なダルシャン英語版」に呼ばれ、これは彼女たちにとって名誉なことだったと回想する者もおり、多くの女性がこの「特別なダルシャン」の経験について語っているが、その内容は一様ではなく矛盾もある[9]。セックス中に深い働きかけを受け内なるエネルギーを動かされたという者もいれば、彼のセックスは冷たい支配の道具だったという者もいた[9]

ヒュー・B・アーバンは、彼が活発で乱交的な性生活を送っていたとしても、それはのゾルバ・ザ・ブッダやネオタントラの教えとは矛盾せず、単に論理的であると言え、彼の性的嗜好に関する周囲の様々な見解は、彼の教えや、「無宗教の宗教」の逆説的で時に矛盾する性質と一致すると述べている[9]

レセプション

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オショー・ラジニーシは一般的に、20世紀にインドから現れたスピリチュアルな指導者の中で最も物議を醸した一人と考えられている[133][134]。 性的、感情的、霊的・精神的、組織的な解放というメッセージと、人を怒らせ感情を逆撫でするというその楽しみから、彼の人生は物議を醸すものになった[135]。 オショー・ラジニーシはインドでは「セックス・グル」、アメリカでは「ロールス・ロイスのグル」として知られるようになった[136]。 伝統的なナショナリズムの概念を攻撃し、政治家に公然と軽侮の念を示し、様々な宗教の指導者を嘲笑ったが、その対象となった人々はオショー・ラジニーシの不遜さを耐えがたく感じた[137][138]。セックス、結婚、家族、人間関係に関する彼の教えは伝統的な価値観と相容れず、世界中で多くの怒りと反感を呼んだ[139][140]。オショー=ラジニーシ運動は広くカルトと見なされていた。オショー・ラジニーシは「けばけばしく、とんでもなく贅沢に」暮らしていると見られていたが、一方で彼の弟子のほとんどは教団の外の友人や家族との関係を断ち切り、自分の金銭や財産のすべて、もしくはほとんどをオショー・ラジニーシのコミューンに寄付し、「最低水準の生活」を送っていたと思われる[141][142]

宗教学者による学術的評価

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オショー・ラジニーシの仕事に対する学術的な評価は様々である。ウダイ・メータ(Uday Mehta)は彼の大乗仏教の解釈には誤りがあると指摘し、「彼の教えには甚だしい矛盾と不整合があり、聞き手の『無知と騙されやすさ』を『悪用』している」と語った[143]。 社会学者のボブ・マラン(Bob Mullan)は1983年に、「偉大な伝統から真理、半面の真理(しか含まない言葉)、偶に誤り伝えられた事を借用している...多くの場合、口当たりがよく、不正確で、もっともらしく、極めて矛盾している」と書いた[144]。ヒュー・B・アーバンもまた、オショー・ラジニーシの教えは独創的でも特に深遠でもないと述べ、その内容の大半は様々な東洋と西洋の哲学から借用したものであると結論付けた[94]。 一方、ジョージ・D・クリサイディス英語版は、オショー・ラジニーシは「アマチュア哲学者ではない」のだから、彼の教えが様々な宗教的教えの「ポプリ(寄せ集め)」と評するのは残念なことだと考えた。彼はオショー・ラジニーシの学問的背景に注目し、「彼の教えを受け入れるかはともかく、他人の思想を解説することに関してはペテン師ではなかった」と述べている[134]。クリサイディスは、オショー・ラジニーシを主に仏教の教師であるとみなし、独自の「ビート禅」を推進したと述べ[134]、その教えの非体系的で矛盾した過激な側面は、人々の変化を誘発しようとするものであり、主題の知的な理解を目的とした哲学の講義ではないと捉えている[134]

ボブ・マランは同様に、オショー・ラジニーシが西洋のカウンターカルチャーヒューマンポテンシャル運動を取り入れたことに関して、その視野の広さと想像力は誰に劣るものでもなく[144]、発言の多くは非常に洞察的で感動的であり、時には奥深いと言えるかもしれないと認めているものの[145]、オショー・ラジニーシの思想は、愛と自由、今を生きる必要性、自己の重要性、「大丈夫だ」という感覚、人生の神秘性、楽しさという倫理、個々人の運命に対する自己責任論、恐怖と罪悪感とともに自我(エゴ)を捨てる必要性に焦点を当てた「カウンターカルチャー主義とポスト・カウンターカルチャー主義の思想の寄せ集め」だと理解していた[146]。 ウダイ・メータは、オショー・ラジニーシが西洋人の弟子たちを魅了したことは、東洋のグルと弟子の伝統英語版(グル・シッシャの伝統)と西洋のヒューマンポテンシャル運動との間に哲学的な繋がりを築いた彼の社会実験に基づいていたと指摘しており[133]、メータはこれを、聴衆の欲求を満たすためのオショー・ラジニーシのマーケティング戦略だとみなしている[94]。ヒュー・B・アーバンもまた、オショー・ラジニーシがスピリチュアルな欲求と物質的な欲求との間の二項対立を否定し、後期資本主義の消費者文化に特徴的な身体と性愛への拘りを反映しており、当時の社会経済的な時勢に合わせているとみている[147]

イギリスの宗教学教授ピーター・B・クラーク英語版は、アメリカの心理学者アブラハム・マズローとヒューマンポテンシャル運動によって定義された自己実現という意味では、大部分の参加者は進歩を感じたと述べている[148]。 クラークは、オショー・ラジニーシが考案したセラピーのスタイルは、性愛を人生の神聖な一部としてリベラルに捉えており、他のセラピーの実践者やニューエイジのグループに影響を与えていることが分かったと述べている[148]。しかしクラークは、この運動に参加した求道者たちの主な動機は「セラピーでもセックスでもなく、古典的な仏教の意味での悟りが開けるという期待」であったと考えている[149]

運動の変革はオショー・ラジニーシの生前から始まっており、マリオン・S・ゴールドマンは、オショー・ラジニーシとその信奉者たちが、運動の失敗の原因をシーラとその側近たちに押し付け、彼女たちを追放したことから変革が始まったと述べている[35]

ピーター・B・クラークは、オショー・ラジニーシが「インド国内で重要な教師として見られる」ようになり、「20世紀の主要なスピリチュアル教師のひとりとみなされるようになり、自己啓発に基づくスピリチュアリティの、『世界を(進んで)受け入れる』現在の傾向の最前線にいる」と述べている[148]

ヒュー・B・アーバンは2005年に、オショー・ラジニーシはインドへの帰国後、特に死後の数年間で「驚くべき神格化」を遂げたと述べており、100年以上前にマックス・ミュラーが「電流のように、東洋の思想が西洋に流れ、西洋の思想が東洋へと戻る世界規模の輪」と呼んだものの強烈な実例であると評した[147]

またアーバンは、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートでは、5つ星ホテル的な豪華な雰囲気の中で、世界中のあらゆる伝統から取られたスピリチュアルな実践が盛り合わせで提供されるが、官能的な意味でも商業的な意味でも「消費的」であり、感覚を愉しませる消費とスピリチュアルな消費のビジネスモデルの両方を称賛する新しいタイプの神聖な空間となっていると評し、「この身体そのものが仏陀である」「富はあらゆる面で人々を高め、あらゆる面で人生を豊かにすることができる完璧な手段である」というオショー・ラジニーシの見解と、「私はスピリチュアルな唯物主義者である」という宣言とがシームレスに融合していると述べている[31]。アーバンによると、このリゾートはオショー・ラジニーシの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想と共に、1990年代のグローバル資本主義の多くの側面、「新自由主義」とも呼ばれるものを体現しており、アーバンは、アシュラムの高級スピリチュアルリゾート化は単なる宗教的な「裏切り」や、商業主義と消費主義によるスピリチュアリティの乗っ取りではなく、後期資本主義とグローバルな新自由主義の文脈における「聖なる空間」そのものの、非常に興味深く複雑な再構築を象徴していると主張している[31]

伊藤雅之は、オショー・ラジニーシと弟子たちが展開した運動の特徴として、「変化の激しさと一貫性の欠如」を挙げている[64]

カリスマ的指導者としての評価

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多くの評論家がオショー・ラジニーシのカリスマ性に言及している。イギリスの精神科医精神分析家のアンソニー・ストア英語版は、オショー・ラジニーシとグルジェフを比較し、オショー・ラジニーシは「個人的に非常に印象的だった」「初めて彼を訪ねた人の多くは、自分の最も本質的な感情がすぐに理解され、判断されるのではなく受け入れられ、はっきりと歓迎されたと感じた。(オショー・ラジニーシは)エネルギーを発し、彼と接触した人々の隠れた可能性を目覚めさせるようだった」と述べた[150]。多くの弟子はオショー・ラジニーシの話を聞いて「彼に恋に落ちた」と述べている[151][152]。スーザン・J・パーマーは、批評家でさえ彼の存在感を証言していると述べている[151]。精神科医で研究者のジェームス・S・ゴードン(James S. Gordon)は、通りすぎるロールス・ロイスの中からオショー・ラジニーシに一目見られただけで、なぜか自分が子供のように笑い、見知らぬ人と抱き合い、目に感謝の涙を浮かべたりしたと回想している[153]。ジャーナリストのフランシス・フィッツジェラルド英語版は、オショー・ラジニーシの話を直接聴いて素晴らしい講演者だと評価し、彼の著書を読んでもわからなかったコメディアンとしての才能と、聴衆に深い影響を与える彼のトークの催眠的な性質に驚きを示した[154]。ヒュー・ミルン(スワミ・シヴァムルティ)は、1973年から1982年までプーナのアシュラムの警備隊のリーダーとして[155]、またオショー・ラジニーシの個人的なボディーガードとして近しく働いたが[156][157]、最初の出会いを振り返り、「プライバシーの侵害も感じず警戒心も湧かなかったが、まるで彼の魂がゆっくりと私の中に入り込み、一瞬のうちに重要な情報を伝えているかのようだった」と、二人の間に言葉以上のものが行き交ったという感覚が残ったと述べている[158]。ミルンはまた、オショー・ラジニーシのカリスマ的能力の別の側面にも注目し、「疑うことを知らない弟子を巧みに操る」人物であると述べている[159]

ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシはマックス・ウェーバーによる、「本質的に非合理的で感情的な、並外れた超自然的な力、あるいは『恩寵(grace)』」を持つという、古典的なカリスマ的人物像に合致するように見えると述べた[160]。オショー・ラジニーシはあらゆる合理的な法律や制度を否定し、あらゆる階層的権威を転覆すると主張する点で、ウェーバーの言う純粋なカリスマ的タイプに一致しているが、アーバンは、彼の主張が内包する絶対自由の展望は、コミューンにおける官僚的組織や制度的な統制に帰着したと述べている[160]

一部の学者は、オショー・ラジニーシが自己愛的な人格を持っていた可能性を示唆している[161][162][163]オレゴン州立大学の宗教学名誉教授ロナルド・O・クラーク(Ronald O. Clarke)は、論文『The Narcissistic Guru: Bhagwan Shree Rajneesh(自己愛的なグル:バグワン・シュリ・ラジニーシのプロフィール)』の中で、オショー・ラジニーシが自己愛性パーソナリティ障害の典型的な特徴、たとえば、自分が重要で特別であるという誇大な感覚、無限の成功の空想へのとらわれ、絶え間ない注目と賞賛を求めること、自尊心への脅威に対する一連の特徴的な反応、対人関係の障害、身だしなみへの執着と頻繁な言い逃れや完全な嘘、共感性の欠如といった特徴を全て示していると述べ、オショー・ラジニーシが自著『Glimpses of a Golden Childhood(黄金の幼少期のひととき)』の中で語っている幼年期の回想から、クラークは彼が過度の甘やかしをする祖父母のもとで育ったために、根本的な親のしつけ不足の影響を被ったのではないかと示唆した[163]。クラークは、オショー・ラジニーシが仏陀を自称したのは、自己愛性パーソナリティ障害に伴う妄想体系の一部であり、自我を手放したというより、むしろ自我の肥大の状態であると結論付けた[163]

思想家・言論人としての広範な評価

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ラジニーシの思想家、講演者としての資質については、様々な評価がある。著名な作家・歴史家でヒンドゥスタン・タイムズ紙の元編集者クシュワント・シンは、オショー・ラジニーシを「インドが生んだ最も独創的な思想家。最も博学で、明晰で、革新的」と評している[164]。シンは、オショー・ラジニーシは「自由思想の不可知論者」であり、最も抽象的な概念を機知に富んだ逸話を交え易しい言葉で説明する能力を持ち、神々、預言者、聖典、宗教的慣習を嘲笑し、宗教にまったく新しい次元を与えたと考えている[165]。ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクはオショー・ラジニーシの帰依者(1978年から1980年までプネーのアシュラム在中)だったが、彼を「宗教のウィトゲンシュタイン」と呼び、世界の諸宗教が行う言葉遊びの根本的な脱構築を行ったとみなし、20世紀の最も偉大な人物の一人に数えた[166][167]。エリザベス・パティックは、オショー・ラジニーシは「霊性の本質を統合する哲学と雄弁の才能により、その知性の幅広さと奥深さを賞賛」されたと述べている[168]

1980年代初頭、一般紙では多くの論者がオショー・ラジニーシを否定的に見ていた[169]。オーストラリアの批評家クライヴ・ジェイムズ英語版は彼を「バグウォッシュ」と軽蔑的に呼び、彼の講話を聴くことは、コインランドリーで洗濯物が回るのを何時間も眺めるようなものだと喩え[169][170][171]、「彼のようなタイプとしてはマシな例」ではあるが、「操られやすい者を操り、互いに操り合うよう仕向ける、虫の好かない奇人」であると述べた[169][170][172]。バーナード・レヴィンはタイムズ紙にオショー・ラジニーシの講演に対する熱狂的な批評を書き、同じくタイムズ紙に寄稿しているドミニク・ウジャスティクはこれに応じて、プネーのアシュラムを訪問した際に聞いた講演は非常に低水準で、うんざりするほど繰り返しが多く、事実誤認が多いという意見を述べ、オショー・ラジニーシを取り巻く個人崇拝に不穏なものを感じると述べている[169][173]

1990年1月にシアトル・ポスト・インテリジェンサー紙に寄稿したアメリカの作家トム・ロビンズ英語版は、オショー・ラジニーシの著書を読んで、20世紀「最大のスピリチュアル教師」だと確信したと述べた。ロビンズは自分が弟子ではないと強調しながらも、さらに「悪質なプロパガンダや偏った報告を多く読んだことで、ラジニーシは歴史上最も中傷された人物の一人ではないかと疑った」と語っている[164]ジャプジ英語版として知られるシク教の経典のオショー・ラジニーシの解説は、インドの元大統領ギャーニー・ジャイル・シンによって、入手可能なものの中で最高であると称賛された[174]。また、作家のファルク・ドーンディ英語版は2011年にコラムの中で、映画スターのカビール・ベディ英語版がオショー・ラジニーシのファンであり、その著作を「彼が出会ったインド哲学の最も崇高な解釈」と見なしていると語った[174]

ドーンディ自身はベディとは見解が異なると述べ、オショー・ラジニーシは「インドが生んだ最も賢く知的な信用詐欺師(confidence trickster)だ。彼のインドの文献の『解釈』は、特に幻滅した欧米人の一世代に向けられたもので、彼らは『ケーキを残しておき、かつ食べる(矛盾する二つのことを両立させ、いいとこ取りをする)』ことを望み(おそらく今も望んでいる)、そして同時に、古代の智恵と融合した科学的な知恵によればケーキを食べることが最高の美徳だ、と言い張っている。彼の講話は、ショーペンハウアーの哲学や、シャンカラアドヴァイタ・ヴェーダーンタ一元論的な根本原理を理解するのが難しい人々のために作られている。マスター・オショーがヴェーダーンタや、スピノザ十字架の聖ヨハネの真髄を読み、消化したことは大いにあり得るが、彼の『哲学』についての解説を読んでもそれは伝わってこない。そのテキストや講話は説教(訓話)でいっぱいで、日々の幸福や心の平穏へと導くものであるように思える。」と評している[175]

活動が含む暴力性について

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最初のプネーのアシュラムのモデルともなったエサレン協会の創始者のひとりディック・プライス英語版は、オショー・ラジニーシの著作を読んで熱狂的に傾倒し、オショー・ラジニーシからサニヤシン名をもらうほどだったが、2週間プネーに滞在して、対面セッション中に骨折や怪我を目撃し、アシュラムで起きている暴力行為に懸念と衝撃、恐怖を表明した[9]。またプライスは、グルに対する無条件の帰依は、エサレンの民主主義と反権威主義的リーダーシップへの取り組みと真逆であり、アシュラムの権威主義的な雰囲気を激しく嫌うと述べた[9]

ヨーガにおける不適切な性的接触英語版に関する在野の研究者マシュー・レムスキー英語版は、ドイツ人映画監督が隠しカメラで撮影したダイナミック・セラピーの様子(「ワイルド・ワイルド・カントリー英語版」第2話収録)について、スピリチュアルなカタルシスを装って正当化された身体的・性的暴力であると評している[176]

コミューンについて

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逮捕された元サニヤシンによる情報

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元サニヤシンのジェーン・ストーク英語版は、自身の体験を語った2009年の著作『Breaking the Spell: My Life as a Rajneeshee and the Long Journey Back to Freedom呪縛を解く英語版:ラジニーシの弟子としての私の人生、そして自由への長い旅)』で、チャールズ・H・ターナー暗殺計画への関与、オショー・ラジニーシの主治医の殺人未遂への関与と共に、オレゴンの共同体で子供たちが児童性的虐待を受けていた事を語っている[177]

ラジニーシプーラムの終焉の分析

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1981年から1986年にかけて、ほとんどの部外者はラジニーシプーラムで流血の大惨事が起こると予想していたが、彼らの暴力が、大量殺人、集団自殺、大規模な集団攻撃にまでエスカレートすることはなかった[96]。マリオン・S・ゴールドマンは、ラジニーシプーラムの状況が緊迫しながらも大惨事に至らなかった理由として、次の点を挙げている[96]

  • サニヤシンになるのは簡単で、家族や古い友人と絶縁する必要はなく、外部と遮断されていなかったこと[96]
  • サニヤシンは主に上流階級と中流階級の出身で、経済的資本だけでなく社会的資本と文化的資本を持ち、教育を受けた裕福な外部の人々と同じ言葉を話し、メディア等でうまく自己表現ができたこと[96]
  • オショー・ラジニーシは物質主義の喜びを受け入れ、資本主義を支持し、その教義は人生と生命に肯定的で、個人主義と自立を重んじ賛美していたこと[96]。彼は時折悲惨な予言をすることもあったが、サニヤシン達はエイズからラジニーシプーラムへの核攻撃まで、時折彼が口にする終末論的な考えを拒否し、笑い飛ばすことさえできた[96]
  • オレゴン州司法長官英語版デイビッド・フロンメイヤー英語版と彼の部下が、政教分離を規定するアメリカ合衆国憲法宗教活動の自由条項英語版を戦略の根拠とし、法に則った解決を図り、暴力の可能性を最小限に抑えるよう努め、過激な反対派の行動を抑えたこと[96]。フロンメイヤー達の戦略は、教団に対する固定観念や恐怖に基づく公の介入や、一部の反対派グループや地元メディアが求めた非公式の反カルト攻撃を抑制し、オレゴン州は紛争が激化する中、ラジニーシプラムでの犯罪行為と民法違反の告発すべてに対し、法的解決を図るよう求めた[96]。フロンメイヤー達はサニヤシンの市民的自由が尊重されるよう徹底し、影響力のある牧場主を説得して銃を銀行の金庫に仕舞わせ、現状を理解し妥協案を模索するサニヤシン達と協力した[96]

死後・レガシー

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オショー・ラジニーシには決まった後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プネーや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している[84]。運動の教義と実践は現在、広義のヒューマンポテンシャル運動の一部となっている[35]

再解釈と社会への適応の成功

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国際的に物議を醸した約20年と、社会への適応を進めた約10年の後、オショー=ラジニーシ運動は新宗教の市場で地位を確立した[56]。信奉者たちはオショー・ラジニーシの役割を再定義し、教えの中心要素をリフレーミング(再構成)することで、部外者から問題視されることを避けた[56]。オショー=ラジニーシ運動のピークは1970年代後半で、これ以降正式な会員数は減少しているが、運動の歴史の選択的な再解釈、教義の再構築、目的の再定義を通じてアイデンティティを機敏に変革することで、アメリカを含め世界中に普及し、勢いのある文化的勢力となった[35]

オショー=ラジニーシ運動の指導者たちは、1980年代半ばには、成功とは20年以内に10万人が住む巨大なユートピア都市をオレゴンに建設することだと定義していたが、オショー・ラジニーシの死後、運動の中心目標の修正し、信者数の増加や共同体都市ではなく、世界的な文化的影響力で運動の成功を定義するようになった[35]。マリオン・S・ゴールドマンは、「いま、ここを生きる」という中心的信条は、何世代にもわたって続くような安定し限定された運動としての発展を妨げたが、運動の流動性と、スピリチュアルな発達の基盤としての物質的幸福の重視は、より若く裕福なスピリチュアな求道者への訴求力を高めており、この運動の文化的影響力の拡大は、「インナーサークル」が、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートが世界中のセンターと個々のクライエントの拠点となるヴィジョンを描いたことによると評している[35]

またゴールドマンは、過去1世紀にわたって、開祖の死を乗り越え、世間のマイナスの認識を変え、影響力を世界的に増大させることに成功した代替宗教はごくわずかで、特に小規模かつ白眼視された運動で、生き残り、世界的な文脈でスピリチュアルな文化的影響力を持つ勢力として成功したものはほとんどないが、オショー=ラジニーシ運動は稀有な例だと述べている[35]。2000年にOSHOインターナショナル財団は伝記『Autobiography of a Spiritually Incorrect Mystic』を出版したが、ヒュー・B・アーバンによると、これはオショー・ラジニーシの生涯を現在の「オショー運動」の観点から編集し、再パッケージしたものである[61]

最近では、以前の「両極的な性(Sex polarity)」の性別観を捨て、男女という性別は互いに異なり補い合うものだという、安定した男女関係を育みやすい伝統的価値観を支持する傾向が見られる[125]

現代における語りでは、オショー・ラジニーシが初期の弟子たちに教えた瞑想と自己成長へのアプローチに焦点が当てられており、物議を醸した時代の教えやグルと弟子の関係の在り方は軽視されている[35]。現在の世界的な成功は、以前の紛争や論争を、重要でない、取るに足りない歴史として再定義したことが非常に大きい[35]。ゴールドマンは、「Osho」への名称変更は、運動のブランド再構築と、以前の困難からうまく距離を取る戦略の一環だったと述べている[35]

プネーの組織がオショー・ラジニーシとそのメッセージを非常にうまく主流化したことで、彼は危険なカリスマ的指導者から、説得力のあるスピリチュアルな教師として世間に受け取られるようになっている[35]。インターネットの出現、Facebook、YouTubeといったサービスにより、運動の影響力は飛躍的に拡大した[35]。2011年に著名なミュージシャンのレディー・ガガが、彼の本を多く読んでおり、創造性や平等への見解を気に入っているとコメントしているが、特にメディアから非難は受けておらず、運動の巧みなマーケティング戦略が成功していることが分かる[35]

近年のオショー=ラジニーシ運動の構成

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運動は世界的にゆるやかなネットワークを持ち、セラピー・センターはアメリカのアリゾナ州セドナ、出版物はドイツのケルン、瞑想リゾートはインドのプネーにあり、OSHOインターナショナル財団系以外にも、インド人を中心とする組織オショー・ディアーナ・マンディール(ニューデリー)、その系統のリトリート・センター、組織化に反対するグループや、プネーのコミュニティの在り方に異を唱え離脱した人々のグループもあり、多中心的で対立しあう、複雑な構造となっている[89][53]。運動はかつて社会と緊張関係にあったが、現在の対立は主に運動内でのものである[35]

オショー・ラジニーシの死後、個々人がアシュラムまたはコミューン(インテンショナル・コミュニティ)に所属しここでフルタイムで生活し人生を捧げるモデルは廃れ、世界各地のセンターや個人の家に半ば定期的に集まる分散型モデルに移行しており、これは大きな変化である[53]。オショー・ラジニーシのメッセージに触発された小規模なインテンショナル・コミュニティやアシュラムは今もあるが、主流ではなく、数多くのセンターが世界中に点在する流動的で分散化された形が主であり、人々はセンターに短いスピリチュアルなリトリートを体験するためにやって来て、瞑想に取り組み、コースを受講し、日常に帰っていく[53]。こうした緩やかなセンターのネットワークには、ドイツの Osho UTA、オランダの Osho Humaniversity、インドのジャバルプルの Osho Amritdham、ギリシャの Osho Afroz、ブラジルの Instituto Osho、カナダの Osho Madhuban、イギリスの Osho Leela、ロシアの Osho Work、イタリアの Osho Varazze、アリゾナ州セドナの Osho Academy、ベイエリアの Osho Viha 等がある[53]。今日のアメリカにおける運動は、1980年代のオレゴンのコミューンとはほとんど似たところがない[53]

経済的価値の高い多国籍企業として

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オショー・ラジニーシの思想と実践は、彼の死後グローバルに広がり続け、21世紀初頭までに、オショー=ラジニーシ運動は巨大で複雑で、極めて経済的価値の高い世界的組織に成長した[53]。これはスピリチュアル運動であると同時に多国籍企業でもあった[53]

オショー=ラジニーシ運動側の社会への歩み寄りもあり、北アメリカと西ヨーロッパの社会は、ヨーガや瞑想のようなスピリチュアルな主題にある程度順応的になっている[56]。OSHOインターナショナル財団 (Osho International Foundation、OIF)は、IBMBMWのような企業の顧客向けにストレス管理セミナーを開催しており、アメリカでは年間1,500万ドルから4,500万ドルの収入があると報告されている(2000年)[178][179]

2000年に India Today は、「Osho Inc.」帝国には「80か国に750の瞑想センター、40か国語で出版された1500冊の本、音楽と説教のテープ400本、800点の署名入り絵画、10,000枚の写真、ダイヤモンドのローブとアクセサリー、ロールス・ロイスの艦隊と不動産」が含まれていると推定した[53]

信奉者の運動への排他的コミットメントの弱化

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現代の信奉者は、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートや関連センターで行われるサニヤス・セレモニーに参加してサニヤシン名をもらうことができるが、これはサニヤシンになるための条件ではなくなった。信奉者は、定期的にオショー・ラジニーシの瞑想を実践するという決意表明をするだけでよいが、中にはそれ以上のことをする人もいる[35]

彼の生前、「イニシエーションを受ける(サニヤス)」とは「彼の弟子になること」だったが、死後意味が変化し、「オショー・アカデミー・オブ・イニシエーション」が1991年に発行したサニヤシンの申込書では、「個々人が自分の人生に対する新たな決意をする機会」という意味合いが強まっており、参加者のオショー・ラジニーシへの排他的なコミットメントが弱まり、自己責任、自己判断による行動がより求められるようになっている[37]

伊藤雅之はこうした状況を、サービス提供者はある程度組織性があるが、その受け手であるクライエントは組織性がなく関与も部分的で、他の宗教運動や組織に参加している場合もある「クライエント・カルト」と理解できるとしている[37]。オショー・ラジニーシが多岐に渡る宗教伝統に言及し多様な実践を取り入れたこともあり、オショー=ラジニーシ運動の雑種性・折衷性は高く、当事者は他のニューエイジ系の本を読んだりワークショップに参加し自己流にスピリチュアリティをアレンジすることがほとんどで、彼らの思想や実践の雑種性はさらに高い[89]

現代のタントラへの影響

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南アジアの伝統的なタントラを再解釈し、東洋と西洋を複雑に融合させたオショー・ラジニーシのネオタントラは、1970年代以降、ヨーロッパとアメリカで人気のある性ヨーガ英語版(タントリック・セックス)のほぼすべてに多大な影響を与えた[103]。現代のタントラはニューエイジ自己啓発運動の中で広まり、ネオタントラのセンターの設立者、現在活動しているタントラの指導者は、マーゴ・アーナンダ英語版等オショー・ラジニーシの弟子が多い[124]。ネオタントラは現在、主に「スピリチュアルな性科学」の一種と考えられている[103]。人気のある書籍の多くがオショー・ラジニーシの直接的な影響を認めているだけでなく、マーゴ・アーナンダの『The Art of Sexual Ecstasy(性的エクスタシーの技法)』(1990年)、訓練を受けたライヒ派セラピストのアニーシャ・ディロン『Tantric Pulsation(タントラの鼓動)』(2005年)等の弟子の作品が多大な影響力を持つベストセラー作品となっている[103]。また、タントラとヨーガに関する彼自身の書籍やDVDも世界中で売れ続けている[103]。世界中で行われているオショー・ラジニーシの教えの実践の多くは、現在もネオタントラと性愛に大きく重きを置き続けている[53]

OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾート

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OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートのイメージ

インドのプネーのアシュラムは、サニヤシン達が長期的に住む共同体、堅固なコミュニティから、短期の訪問者が訪れ、教師さえ自由に出入りする観光リゾ��トへと変化し、より明確に国際的なビジネスへと進化した[31]。現在はOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾート(the Osho International Meditation Resort)というスピリチュアルなリゾート施設になっている[180][本人 3]。この施設は「東洋のエサレン」を称しており、幅広い伝統から取られた様々なスピリチュアルなテクニックを教え、美しいリゾート環境の中で自己を発見し、肉体と精神の欲求を統合するためのスピリチュアルなオアシス、「聖なる空間」であると宣伝している[52]。OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートは、Lifestyles of Health and Sustainability(LOHAS)として知られるリトリートと自己啓発プログラムの緩やかな世界的連合に加盟する数千のセンターの1つであり、毎年計30億ドル以上の収益を生み出している[35]

インドにあるが地域性を感じさせない脱土着化したスピリチュアル・リゾートになっており、入場者のほとんどは外国人である[89]。ヒュー・B・アーバンらが2011年から2013年に滞在した際にカウントしたところ、訪問者の約75%はインド人以外で、そのうち半数以上がヨーロッパ人、次いでアメリカ人、イギリス人、ブラジル人、イスラエル人、日本人で、インド人客はほぼ全員が裕福な中流階級と上流階級だった[31]。報道によると、著名な訪問者には政治家やメディア関係者もおり[180]、Facebookの創設者マーク・ザッカーバーグもこの施設を訪問したことがある[35]。清掃員、用務員、食事サービス、ランドリースタッフなどの末端の労働者は100%南アジア人で、決して上流階級ではない[31]。宿泊料や入場料、各種コースの料金は上昇し(宿泊料は五つ星ホテルに匹敵し、シーズン中はさらに高くなる)、高額な料金を払えない人は排除され宿泊者は減っていき、2016年時点で少数の富裕層向けの施設となっている[31]

プネーの統治者グループのメンバーであっても、赤やオレンジ色のローブやオショー・ラジニーシの肖像が描かれたロケットを身につけていないが、リゾートの訪問者と居住者は、日中は栗色のローブ、夜の瞑想中はシンプルな白いローブを着用する必要があり、これは、親しいグループとして集まり、真剣に瞑想を追求する意思を示す手段となっている[35]

マリオン・S・ゴールドマンは、訪問者は複数の新宗教と関わりがあると述べており、社会的、文化的、経済的資本を持ち、時間とお金をかけて、より豊かなスピリチュアル体験を追求し、人間の潜在能力を最大限に発揮できる仲間、実践、教義を模索し、様々に試すことができる特権的な「裕福な求道者」達が、Web上での世界的なスピ​​リチュアル市場の活況にオショー・ラジニーシへの関心を刺激され集まってきている[35]

2013年現在、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートは、到着時にすべての宿泊客にHIVエイズの検査を義務付けている[181]。かつてオショー=ラジニーシ運動は性欲とネオタントラの過激な実践を重んじており、エイズが流行してからは性衛生に非常に関心を持ち、メンバーに特別な「エイズキット」を配布しており、リゾートにはこうした不安の名残りが今日も残っているためである[31]

インドにおける受容

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オショー・ラジニーシの教えは彼の生前、母国インドでは多くの人に歓迎されることはなかったが、死後インドの世論に変化が生じ[182][174]、生前よりも死後の方が母国で称賛されている[51]。インドの都市部では近年新興のヒンドゥー教団の活動が活発化しており(2005年時点)、特に 1960年代後半以降に欧米の若者たちの一部で人気があったオショー・ラジニーシ運動やクリシュナ意識国際協会といった新興ヒンドゥー教団が急速にインドに逆輸入され、都市部で大きな影響力を持っている[5]

インドのある新聞は1991年に、インドの運命を最も変えた10人に仏陀マハトマ・ガンディーといった人物と共に彼を入れており、その理由は「宗教性と画一主義の束縛から未来の世代の心を解放した」こととされた[183]。インディアン・エクスプレス紙に寄稿したコラムニストのタンウィール・アラムは、「故ラジニーシは、人間の幸福を破壊する社会の不条理を見事に表現した」と述べた[184]。2006年の彼の生誕75周年記念の祝賀会で、インドの歌手ワシフッディン・ダガーは、彼の教えは「以前よりはるかに現在の社会に合っている」と述べた[185]パルヴィーン・バビ英語版マヘーシュ・バット英語版のような多くのボリウッドの有名人もオショー・ラジニーシの教えの信奉者として知られている[186]

2011年に、オショー・ラジニーシの教えに関する全国セミナーがジャバルプルのマンクンワルバイ女子大学の哲学科で開催された[187]。このセミナーは大学助成委員会のボーパール事務所が資金提供し、オショー・ラジニーシの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の教えに焦点を当て、霊性・精神性と唯物論的・客観的なアプローチの調和を模索した[187]

日本

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オショー・ラジニーシの生前は日本でも若者を中心に信奉者が増えたが、彼の死後日本ではあまり活発な活動はみられない[4]。1988年に開設された Osho サクシン瞑想センターは2018年時点でも東京にあり、瞑想や各種セミナーの開催、オショー・ラジニーシの書籍の販売などが行われている[4]

その他の国での人気

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ネパールでは、2008年1月時点で60のラジニーシ・センターがあり、45,000人近くの弟子が入門している[188]

イタリアでは2016年に「Le più belle frasi di Osho」と題された風刺的なFacebookページが開設され、オショー・ラジニーシの写真に国政についてのユーモラスなキャプションを付けた投稿を行い、フォロワーが100万人を超えて文化現象となり、投稿は全国紙やテレビで紹介もされた[189]。彼の本は200以上の出版社から60以上の言語で出版されており[190]、イタリアと韓国でベストセラーとなった[183][191][192]

運動内部からの商業化・「インナー・サークル」への批判

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プネーの指導者たち「インナー・サークル」はインド人ではなく、サニヤシンの中には、彼らが利益主導の商業主義に陥り、本当のコミューンから、裕福な観光客が数日リラックスするために訪れるだけの、西洋化された高級リゾートに変わってしまったと憤慨する物もいる[53]

Oshoという名前、本、技法の権利は、インドからスイスのチューリッヒとアメリカのニューヨークに移されたが、インド人サニヤシンが増加する中で、インド人の中にはこうした動きにショックを受け、プネーのセンターを運営する非インド人達によってオショー=ラジニーシ運動が商業化され、西洋化され、インド人が除け者にされていると怒りを表す人も増えた[53]

OSHOインターナショナル財団と対立団体の、Oshoという商標と彼の著作物に関する長年に渡る激しい法廷闘争や、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートの経営陣による利益や土地の不正な移動の疑惑、プネーのアシュラムが(オショー・ラジニーシが批判した意味での)宗教化しているという批判、OSHOインターナショナル財団によるオショー・ラジニーシの遺言状の偽造の疑惑といった告発や訴訟は、インド国内だけでなく世界中のサニヤシンたちのスピリチュアルな生活や士気に影響を与え、プネーのアシュラムの雰囲気を大きく変えた[53]。ヒュー・B・アーバンによると、長年サニヤシンである人々や、プネーのコミュニティのメンバーは、初期のアシュラムにあった熱狂的で遊び心のある混沌とした雰囲気は、国際的な企業ホテルに似た、新しい種類の怪しげな官僚主義に徐々に取って替わったと語っており、彼がインタビューした街で働く一般の人々も基本的に同意見である[53]

複雑で激しい法的な争いは、21世紀のオショー=ラジニーシ運動の一部を落ち込ませたが、オショー・ラジニーシの遺産全体にとって重要なことだと考えている人は一部に留まり、ほとんどのサニヤシンは、オショー・ラジニーシのメッセージへの注目を邪魔する、退屈で、煩わしく、非常に恥ずかしいものだが、オショー・ラジニーシのメッセージとはほとんど関係がないと考えているようで、この運動に意味を見出し続けている[53]

死後の著作権・商標に関する法的紛争

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オショー・ラジニーシの死後そのコミュニティは分裂していき、プネーを中心とし主に非インド人メンバーが率いるOSHOインターナショナル財団(OIF、現在の拠点はチューリッヒ)と、ニューデリーを中心とし主にインド人メンバーが率いるオショー・ディヤーナ・マンディール(Osho Dhyan Mandir)とそのウェブサイト Oshoworld.com を主とするライバルグループに分かれ、Oshoという名前の権利をめぐって大規模な法廷闘争が繰り広げられ、運動における国家主義的かつグローバルな緊張が浮き彫りになった[53]

オショー・ラジニーシが生前、東洋のスピリチュアルな伝統である瞑想を著作権商標で保護することを明確に否定したにもかかわらず、彼の死後すぐに彼が提唱した瞑想は著作権で保護され、使用権と利益をめぐる様々な争いにつながった[53]。1992年以降、OSHOインターナショナル財団はOshoという名前に関連するすべての書籍、テープ、瞑想、その他の資料についてアメリカで商標登録を出願し始め、今日彼らは、オショー・ラジニーシの作品のすべての著作権と、さまざまな実践のすべての商標、デザイン、ロゴの唯一の登録された所有者であると主張し、この動きはオショー・ディヤーナ・マンディールを主とするライバルのオショー・グループとの一連の法的紛争につながった[53]

OSHOインターナショナル財団は2000年にオショー・ディヤーナ・マンディールを相手取り、「Osho World(www.oshoworld.com)」というウェブサイトのドメイン名にOshoという名前を使用したことで訴えたが、これは、「Osho」という単語が個人名なのか、仏教の師を意味する日本語の一般的な称号なのか、また宗教的な称号自体が知的財産になり得るのかという、大きく根深い問題を提起することになった[53]。オショー・ディヤーナ・マンディールは、瞑想を著作権で保護し商標登録することを否定したオショー・ラジニーシの言葉を引用し、宗教的思想を著作権で保護したり商標登録したりするという考えを否定したが、OSHOインターナショナル財団は、オショー・ラジニーシは頻繁に矛盾した発言をしており、この発言を彼の最終的な結論ということはできず、商標と著作権はオショー・ラジニーシの教えの濫用を防ぐためにあると反論した[53]

この争いは全米仲裁フォーラム(NAF:The National Arbitration Forum)に持ち込まれた[53]。全米仲裁フォーラムは、オショー・ラジニーシ自身は知的財産権問題にほとんど関心がなく、この称号を商業的利益のために利用していないと指摘し、団体がOshoのような名称を商標登録することを認めるとキリストや仏陀などの他の宗教の称​​号の商標登録にも道が開かれるとも述べ、オショー・ディヤーナ・マンディールに有利な判決を下した[53]

この判決を受け、同年後半に、オショー・コミュニティ内の反体制派や、プネーのコミュニティの在り方を「攻撃的で支配的」だと批判し事実上追放された人々が、オショー・フレンズ・インターナショナル (Osho Friends International:OFI) という新しいグループを結成した[53]。彼らはオショー・ラジニーシの教えの露骨な商業化を拒否し、その作品とテクニックは世界中で自由に利用できるべきだと主張し、彼のメッセージは全人類のためのもので、知的財産権の主張によって束縛されることはないと主張し、「OSHO : すべての人の生得権 - 誰の著作権でもない(OSHO: Everybody’s birthright—nobody’s copyright.)」をスローガンに掲げ、Oshoという名前の商標、オショー・クンダリニー瞑想やオショー・リバランシングなどの技法の商標取り消しのために、米国特許商標庁 (USPTO) に請願書を提出した[53]。米国特許商標庁は2009年、前述の超越瞑想(TM)を取り上げたオショー・ラジニーシの風刺的な批評を引用し、普及のためにメンバーが世界中にセンターを設立し、OSHOという名前を使用することをオショー・ラジニーシは許可していたと認め、OSHOインターナショナル財団に不利な判決を下し、Oshoという名前は一般的な形容詞であり、競合他社が自由に使用できるべきであると判断した[53]。また米国特許商標庁は、ポール・ヒーラス英語版の著書『The New Age Movement(ニューエイジ運動)』などの学術作品も調査し、学術界では「Osho」を「宗教的、瞑想的な運動であり、商標ではない。(religious and meditative movement and not as a trademark.)」一般的な意味で言及していると指摘している[53]

しかし、OSHOインターナショナル財団は、アメリカの2つの主要団体の判決で否定されたにもかかわらず、 Oshoという名称、技法、関連する道具類の世界的な流通に対する権利を主張し続けている[53]。Osho.comのWebサイトでは2016年時点で、著作権および商標権を変わらず維持しており、これらの判決はアメリカのみに影響し、Oshoという名称が引き続き保護されている他の国には影響しないと主張している[53]

2009年の米国特許商標庁の判決から間もなくして、OSHOインターナショナル財団は、Oshoという名前とテクニックを宣伝する傘下外のグループのFacebookページに対し、著作権侵害でFacebookに告発しページを削除させることを繰り返した[53]。サンフランシスコの独立系のオショー・センターはブログで、OSHOインターナショナル財団はアメリカでの敗訴の後、登録に反対するサニヤシンが十分にいない中国やベネズエラなどで商標を登録し、インターネットは全世界に広がっており、いくつかの地域で有効な商標登録があるのだからインターネット上のビジネス名にOSHOを使うことはできないと主張しており、また、Facebookは「Osho」を人物ではなく単に商標として扱っていると、OSHOインターナショナル財団の行いとFacebookの判断の不当さを訴えた[53]

また、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートの資産をめぐり、プネーのセンターを運営する少数のサニヤシン(主に非インド人)の経済的利益のために資産が売却・譲渡されているという多くの批判がある[53]

OSHOインターナショナル財団による遺言状の偽造疑惑

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2010年にオショー・ロータス・コミューン(ドイツ、ケルン。ヨーロッパ最大のオショー瞑想センターであるOsho UTA インスティテュートの親組織)は、欧州共同体商標意匠庁(OHIM:the Office for Harmonization in the International Market)に請願書を提出し、アメリカの局に倣ってOSHOインターナショナル財団の商標権の主張を無効とするよう求めた[53]。オショー・ロータス・コミューンは、OSHOインターナショナル財団の主張はオショー・ラジニーシの遺産を守るためのものではなく、主に権力、すなわち彼の莫大で利益の多い遺産の支配に関するものであるとはっきり述べ、OSHOインターナショナル財団の主張は、オショー・ラジニーシの崇高な目的の中心である自由と、制度的および官僚的支配に対する彼の根本的な拒絶に真っ向から反していると主張した[53]

これに対しOSHOインターナショナル財団は、商標の独占所有の主張を裏付けるために、1989年10月15日に署名されたオショー・ラジニーシの「遺言状」とされる文書と、弁護士による宣誓供述書を提出した[53]。これは1ページに満たない非常に短い文書だったが、「私、オショーは、現在または将来私が所有するあらゆる形式のあらゆる権利、権原(所有権、出版権、関連する権利を含むが、これらに限定されない)を「ネオ・サニヤス・インターナショナル財団」に譲渡し、遺贈する。これには、現在または将来、あらゆる形式で公開される私のすべての作品が含まれる。(I, Osho … hereby devise and bequest any and all right, title in any form owned by me, now or in the future, including but not limited to all ownership, publishing or related rights, to all my work, published to date or in the future, in any form, to “Neo Sannyas International Foundation.“)」という文章が含まれていた[53]

ネオ・サニヤス・インターナショナル財団は、OSHOインターナショナル財団(1990年)の前身であり、この文書が本物であれば、世界中のすべての オショー・ラジニーシの関連資料の権利がOSHOインターナショナル財団の単独管理下に移譲されることになる[53]。しかしすぐに、この文章の署名が1976年の別の文書の署名と全く同じであるという疑惑が生じ、イタリアのボローニャ、オーランガバード、ニューデリーの複数の独立した専門家によって、顕微鏡レベルで精査され、「遺言状」の署名は1976年の手紙の署名と同じであると結論付けられ、それは文章が偽造であることを意味した[53]

2013年12月、オショー・フレンズ・インターナショナルを代表しヨーゲッシュ・タッカーが、「遺言状」の署名は利権目的で偽造されたものであると主張し、告訴状を提出した[53]。その直後、プネー警察はアシュラムの管理者に「遺言状」の原本を提出するよう求める通知を出したが、2014年1月、OSHOインターナショナル財団は「遺言状」をヨーロッパの裁判手続きから取り下げた[53]。OSHOインターナショナル財団を批判する人々は、これは「遺言状」偽造のダメージを最小限にするための必死の行動で、これ自体が偽造の証拠であると見ている[53]。現在多くの批評家は、「遺言状」は偽造されたものだと考えている[53]

アメリカ連邦裁判所はOSHOインターナショナル財団の控訴を棄却する命令を出し、これによりオショー・フレンズ・インターナショナル(Osho Friends International:OFI)との10年近くにおよんだ一連の法廷闘争は終わり、2009年1月にOSHOインターナショナル財団が保有するOshoという商標は、アメリカで無効となった[59]。プネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートはこの判決に対してコメントは出さなかったが、ニューデリーのオショー・ワールド財団が発行する月刊誌「オショー・ワールド」の編集者スワミ・チャイタニヤ・キールティは、自分と世界中のオショー・ラジニーシの信者たちは喜んでいると語った[59]

ダイナミック瞑想の医療的利用の検証

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アメリカのダラスの精神科医Vyas, A博士は、オショー・ラジニーシが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。[193][信頼性要検証]ただし、この論文の出版元「ATHENS INSTITUTE FOR EDUCATION AND RESEARCH」は、ハゲタカジャーナルと呼ばれる出版社・学術誌のリスト「ビールのリスト」に掲載されている[194][195]

2015年に21日間、ダイナミック瞑想の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20-50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。健康なボランティアを対象に実施され、参加者数が16名と少ないことが指摘されており、ダイナミック瞑想のストレス解消効果をより実証するには、ストレスを抱えた人々を対象に、大人数が参加する研究をさらに行う必要がある。[196]

ドキュメンタリー

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オショー・ラジニーシ達の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた[197]。オショー・ラジニーシの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている[197]

映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い[197]。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した[197]ニュー ・リパブリック英語版の編集長で、『The Rajneesh Chronicles: The True Story of the Cult that Unleashed the First Act of Bioterrorism(ラジニーシ黙示録:アメリカで最初のバイオテロを起こしたカルトの真実の物語)』の著者ウィン・マコーマック英語版は、この映画は、膨大な量のニュース映像アーカイブを調査、発見、選択し、一貫した枠組みに編集するという大変な仕事を成し遂げ、地域住民への詳細なインタビューを行い、可能な限り双方の代表者に意見を述べさせており、過去のプロパガンダ的な映画よりかなり良作だと評価している[198]

一方マコーマックは、本作は教団が起こした問題と真の脅威の範囲に向き合うことには失敗していると評している[198]。マシュー・レムスキーは、田舎者対侵略者の戦いを描いたポップで魅力的な娯楽作品に過ぎず、「客観性」を称賛する多くのレビューがあるが、実際のところ問題の多くは取り上げられていないと述べている[176]

OSHOインターナショナル���団は公式サイトで、本作で取り上げられたオショー・ラジニーシ達の破滅は、本質的にはオショー・ラジニーシのヴィジョンの妨害を目指すアメリカ政府の謀略によるもの等と反論している[official 3]

創作

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  • インド系アメリカ人作家アヴニ・ドーシ英語版のデビュー作で、2020年ブッカー賞最終候補作『母を燃やす英語版』(Burnt Sugar)では、結婚しプネーで抑圧された生活を送っていたが自分の欲求に従って生きることを選びアシュラムに飛び込んだ母と、生後まもない頃に母にアシュラムに連れていかれ、ここで7歳まで母がいるのに世話をしてもらえない生活を強いられた娘の葛藤が描かれた[199]。作者の母方の家族はオショー・ラジニーシのプネーのアシュラムと関係があり、本作はそれにインスピレーションを受けた[200]。ガーディアン紙は、アシュラムのグルのモデルはオショー・ラジニーシであると指摘している[199]

講話

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講話(えり抜き)

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反社会主義・反ガンジー主義:

  • Secret of Secrets[66]
  • Mind of Acharya Rajneesh[66]
  • Beware of Socialism![66]

イエス・キリストの言葉について:

道教について:

  • Tao: The Three Treasures Vol I – IV (老子の老子道徳経)
  • The Empty Boat (荘子の物語)
  • When the Shoe Fits (荘子の物語)

仏教について:

バウルの神秘家について:

  • The Beloved

スーフィーについて:

  • Until You Die
  • Just Like That
  • Unio Mystica Vols. I and II (サナーイーの詩)

ユダヤ教ハシディズムについて:

  • The True Sage
  • The Art of Dying

ウパニシャッドについて:

アシュターヴァクラ・ギーター英語版について:

  • Total of 91 separate discourses

ヘラクレイトスについて:

  • The Hidden Harmony

カビールについて:

  • Ecstasy: The Forgotten Language
  • The Divine Melody
  • The Path of Love

仏教徒のタントラについて:

  • Tantra: The Supreme Understanding
  • The Tantra Vision

セックスについて:

  • From Sex to Superconsciousness[34]

パタンジャリヨーガについて:

  • Yoga: The Alpha and the Omega Vols. I – X (Yoga, the Science of the Soul として再版)

瞑想のメソッドについて:

  • The Book of Secrets, Vols. I – V (瞑想、ネオタントラ[34])
  • Meditation: the Art of Inner Ecstasy
  • The Orange Book
  • Meditation: The First and Last Freedom
  • Learning to Silence the Mind

グル・ナーナクの『ジャプジ』とシク教について:

  • The True Name

質問に基づいた講演:

  • I Am the Gate
  • The Way of the White Clouds
  • The Silent Explosion
  • Dimensions Beyond the Known
  • Roots and Wings
  • The Rebel

自身の幼年期について:

  • Glimpses of a Golden Childhood

ダルシャンのインタビュー:

  • Hammer on the Rock
  • Above All, Don't Wobble
  • Nothing to Lose but Your Head
  • Be Realistic: Plan for a Miracle
  • The Cypress in the Courtyard
  • Get Out of Your Own Way
  • Beloved of My Heart
  • A Rose Is a Rose Is a Rose
  • Dance Your Way to God
  • The Passion for the Impossible
  • The Great Nothing
  • God Is Not for Sale
  • The Shadow of the Whip
  • Blessed Are the Ignorant
  • The Buddha Disease
  • Being in Love

禅宗について:

  • Neither This nor That (僧璨の信心銘)
  • No Water, No Moon
  • Returning to the Source
  • And the Flowers Showered
  • The Grass Grows by Itself
  • Nirvana: The Last Nightmare
  • The Search (十牛図)
  • Dang dang doko dang
  • Ancient Music in the Pines
  • A Sudden Clash of Thunder
  • Zen: The Path of Paradox
  • This Very Body the Buddha (白隠慧鶴の座禅和讃)

日本での出版

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バグワン・シュリ・ラジニーシ
  • 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳(星川淳)訳 (めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X)
  • 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の十牛図を語る』スワミ���プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8)
  • 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年)
  • 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジネーシ、老子を語る(1,2,3,4)』 スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1979-1982年、河出書房新社、2014年)
  • 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年)
  • 般若心経―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1980年)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5)
  • 『愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくまーる、1981年)
  • 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年)
  • 『虚空の舟―荘子 (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年)
  • バウルの愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳(めるくまーる 1983年・1984年)
  • 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年、めるくまーる、1995年)
  • 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ金剛般若経を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年)
  • 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ基本的人権を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年)
  • 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン 訳(めるくまーる、1996年)
  • 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年)
  • 一休道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2)
  • 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1988年、ISBN 4-8397-0037-0)
  • マイトレーヤ―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年)
  • 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7
  • 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年)
  • 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年)
  • 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年)
OSHOラジニーシ
  • 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ、スワミ・アナンド・ソパン訳 (めるくまーる、1989年)
  • 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3)
  • 坐禅和讃―和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年)
  • 臨済録』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1991年、ISBN 4-8397-0061-3)
  • 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年)
和尚/Osho/和尚
  • 『モジュッド 説明できない生を生きた人』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年)
  • 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 (めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5)
  • 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (和尚エンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1)
  • 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年)
  • 『空っぽの鏡・馬祖』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』(和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 道元―その探求と悟りの足跡』和尚 講話、スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 『神秘の次元』(日本ヴォーグ社、1992年)
  • 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 和尚 講話、スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (和尚コーシャ瞑想センター、1992年)
  • 『新瞑想法入門』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2
  • 『これこれ千回もこれ―[要曖昧さ回避]のまさに真髄』和尚 講話、スワミ・アナンド・ソパン訳 (和尚エンタープライズジャパン、1993年)
  • 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 (市民出版社、1993年)
  • 秘教の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年)
  • 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4)
  • 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6)
  • 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • 第三の眼[要曖昧さ回避]―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • ダンマパダ』 沢西康史訳(瞑想社、1994年)
  • ボーディダルマ』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6)
  • 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『TAO―老子の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8)
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  • 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1996年)
  • 『奇跡の探求―覚醒の炎 <和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社 1996年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1998年)
  • 『禅宣言』(市民出版社、1998年)
  • イーシャ・ウパニシャッド―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 (市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0)
  • 『奇跡の探求―七身体の神秘 <和尚初期瞑想キャンプの講話2>』和尚 講話、和尚サクシン瞑想センター訳 (市民出版社、1998年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 (市民出版社、1999年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7)
  • 黄金の華の秘密』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0)
  • 『ユニオ・ミスティカ』 (市民出版社、1999年)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年)
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  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
Osho
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
  • 『死のアート』 (市民出版社、2001年)
  • 『エンライトメント―神秘家・アシュタヴァクラ ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 (市民出版社、2003年)
  • 『シャワリング・ウィズアウト・クラウズ (市民出版社、2003年)
  • 『永久の哲学1』 (市民出版社、2004年)
  • 『ラスト・モーニング・スター』 (市民出版社、2004年)
  • 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2005年)
  • 『そして花々が降りそそぐ』 マ・プレム・プラバヒ、Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社、2005年)
  • 『究極の錬金術 1―古代の奥義書ウパニシャッドを語る』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2006年)
  • 『永久の哲学2―ピュタゴラスの黄金詩2』(市民出版社、2006年)
  • 『サラハの歌<タントラ・ヴィジョン1>』(市民出版社、2006年)
  • 『究極の錬金術 2―人間―永遠と永遠の架け橋』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2008年)
  • 『魂の科学-パタンジャリヨーガ・スートラ澤西康史訳 (LAF瞑想社、2007年)
  • 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2007年)
  • 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 (市民出版社、2009年)
  • 『探求の詩』 (市民出版社、2011年)
  • 『魂のヨーガ』 (市民出版社、2012年)
  • 『アティーシャの知恵の書 上』 (市民出版社、2012年)
  • 『アティーシャの知恵の書 下』 (市民出版社、2013年)
  • 『愛の道-神秘家・カビールを語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2013年)
  • 『Joy 喜び』 山川紘矢山川亜希子訳 (角川書店、2013年)
  • 『草はひとりでに生える』(OEJブックス、2013年)
  • 『究極の旅』(河出書房新社、2013年)
  • 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校(市民出版社、2014年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1014年)
  • 『炎の伝承1』(市民出版社、2014年)
  • 『Courage 勇気』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2014年)
  • 『死について41の答え』OSHO 講話ほか 伊藤アジータ 訳、スワミ・アナンド・ニラーラ 照校 (OEJブックス 出版、めるくまーる 発売、2015年)
  • 『炎の伝承2』(市民出版社、2015年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、2015年)
  • 『内なる宇宙の発見―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書1>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1015年)
  • 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳(市民出版社、2016年)
  • 『奇跡の探求2』(市民出版社、2016年)
  • 『Intuition 直観』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2016年)
  • 『瞑想の道』(市民出版社、2017年)
  • 『Creativity 創造性』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2017年)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、2018 年)
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2018年)
  • 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2019年)
  • 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年)
  • 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 (大和書房、2019年)
  • 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 (市民出版社、2019年)
  • 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO 星川淳訳 2020年 めるくまーる)
  • 『心理学を超えて 2 』(市民出版社、2020年)
  • 『新瞑想法入門』(市民出版社、2021年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ バグワン・シュリ・ラジネーシとも。
  2. ^ 宗教学者の井上順孝は「ラジニーシ運動は、ラジニーシ・チャンドラ・モハンによって創始されたインド系の宗教である」と述べている[4]。南アジアの研究者中島岳志は「オショー・ラジニーシ運動」を「新興ヒンドゥー教団」としている[5]
  3. ^ 石田かつ江という日本人の予言者は、彼をマイトレーヤだと認識していた[31]
  4. ^ なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、オショー・ラジニーシの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており[70][要ページ番号]、それがアメリカのニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるオショー・ラジニーシの引用の少なさを説明している、と考えている。引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年[要ページ番号]
  5. ^ 宗教学者のマルティン・レップは、オウム真理教の開祖麻原彰晃阿含宗の会員だった1980年代前半、ラジニーシ運動が日本で活発に活動していたと述べ、麻原の長髪や出家信者のインド風の衣服(クルタ)はインドの影響を示していると指摘している[71]
  6. ^ ジュリエット・フォアマン『Bhagwan:Twelve Days that Shook the World(バグワン:世界を揺るがした12日間)』、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?(バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?)』は、オショー・ラジニーシが毒を盛られたという主張に賛成し検証した書籍である[関係者 2][要ページ番号]

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一次資料

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本人著作
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  2. ^ 和尚 著、スワミ アナンド ソパン 訳『空っぽの鏡』壮神社、1992年11月30日、p213頁。 
  3. ^ OSHO マ・アナンド・ムグダ訳. こころでからだの声を聴く: ボディ・マインド・バランシング. 市民出版. p. 243 
自社資料
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  1. ^ Name-change to Osho” [Oshoへの改名]. Osho World. 2020年5月30日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ Trademark Information - OSHO Trademarks(商標情報 - OSHO 商標)”. OSHO International Foundation (2012年2月20日). 2020年5月13日閲覧。
  3. ^ ワイルド・ワイルド・カントリーの背後にあるストーリー”. Osho International Foundation. 2021年5月5日閲覧。
関係者
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  1. ^ マ・プレム・シュンニョ (1994年9月21日). 和尚と過ごしたダイアモンドの日々. 和尚エンタープライスジャパン株式会社 ---p165-p166
  2. ^ a b c d e f g マックス・ブレッカー (2005年10月15日). OSHO:アメリカへの道 砂漠の実験都市・ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相. 和尚アートユニティ 出版、めるくまーる 発売 
  3. ^ ヴァサント・ジョシ 宮川義弘訳. 異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡. 市民出版社 
  4. ^ a b c d e f g ヴァサント・ジョシ 宮川義弘訳 (2018年10月29日). 異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡. 市民出版. p. 385-387 

参考文献

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書籍・論文

関連文献

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  • ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 訳 市民出版社 2018年
  • ナルタン(日家ふじ子) (2016). 自分という名の迷宮 インナーラビリンス. めるくまーる 
  • マックス・ブレッカー『OSHO:アメリカへの道 - 砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、和尚アートユニティ 出版、めるくまーる 発売、2005年
  • Osho (2004), Meditation: the first and last freedom, St. Martin's Griffin, ISBN 978-0-312-33663-9 
  • マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々: ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ』 マ・プレム・ソナ訳、和尚エンタープライズジャパン、1994年
  • Milne, Hugh (1986), Bhagwan: The God That Failed, London: Caliban Books, ISBN 1-85066-006-9 
    • ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、第三書館 、1991年(再版)ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録
  • Joshi, Vasant (1982), The Awakened One, San Francisco, CA: Harper and Row, ISBN 0-06-064205-X 
    • ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年
解説
  • 玉川信明著 『和尚の超宗教的世界 トランスパーソナル心理学との相対関係』(社会評論社、2001年)
  • 玉川信明著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年)
  • 玉川信明編著 『和尚、性愛を語る』 (社会評論社、2003年)
  • 玉川信明編著 『和尚、聖典を語る』 (社会評論社、2003年)
雑誌
  • 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989)
  • 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → Oshoイア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了
  • 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳

関連項目

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外部リンク

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