コンテンツにスキップ

三田昇馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月15日[1][2][3])- 1901年明治34年)5月20日[1][2][4][注 1])は、幕末から明治期の徳島藩家老稲田家重臣、裁判官政治家貴族院勅選議員。初名・直方[1][2]、号・高陽間人[2]

経歴

[編集]

淡路国津名郡洲本城下洲本紺屋町(現兵庫県洲本市)で、稲田家家臣・三田省輔の三男として生まれる[1][2][5]。稲田家学問所・益習館で学んだ[5]。内藤弥兵衛、立木兼善らと天誅組運動に加わり徳島藩から禁固処分を受けたが、朝廷の命により釈放された[1][2]。明治元年2月(1868年)軍監役[6]、糺問局頭取として有栖川宮 東征大総督の護衛として東征に従軍した[1][2][4][5]

明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還で稲田家旧家臣が士族に編入されなかったため、七条弥三右衛門、内藤弥兵衛らと徳島藩からの分藩運動を起こした[1][2][3]。そのため徳島藩の若手士族の怒りを買い、彼らは明治3年5月(1870年)に洲本の稲田家を襲撃した庚午事変を起こした[1][2][3][5]。その後、稲田家の番頭として過ごし、1873年(明治6年)大阪に転居し、1874年(明治7年)司法省十等出仕となり東京裁判所勤務に勤務した[1][2][6]。以後、埼玉裁判所勤務、名古屋裁判所勤務、山田区裁判所長、天草始審裁判所長、天草治安裁判所長、熊本始審裁判所詰、浦和始審裁判所熊谷支庁長、同始審裁判所判事、熊谷区裁判所詰兼浦和地方裁判所熊谷支部長、青森地方裁判所部長などを歴任した[1][2][3][6]。その他、執達吏登用試験委員長なども務めた[6]

1897年(明治30年)12月23日、貴族院議員に勅選され[1][2][3][6][7]、死去するまで在任した[3][6][8]

栄典

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』166頁、『兵庫県人物事典』下巻・17頁では5月21日。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『徳島県人名事典 別冊』301-302頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『徳島県百科事典』919頁。
  3. ^ a b c d e f 『兵庫県人物事典』下巻、17頁。
  4. ^ a b 『明治過去帳』628頁。
  5. ^ a b c d 『兵庫県大百科事典』下、1067頁。
  6. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』166頁。
  7. ^ 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
  8. ^ 『官報』第5365号、明治34年5月24日。
  9. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。

参考文献

[編集]
  • 『徳島県人名事典 別冊』徳島新聞社、1994年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『兵庫県大百科事典』下、神戸新聞出版センター、1983年。
  • 『徳島県百科事典』徳島新聞社、1981年。
  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
  • 『兵庫県人物事典』下巻、のじぎく文庫、1968年。