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前田重靖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
前田重靖
時代 江戸時代中期
生誕 享保20年11月8日1735年12月31日
死没 宝暦3年9月29日1753年10月25日
改名 嘉三郎(幼名)→利見→重靖
戒名 天珠院殿嘯月仁勇大居士
官位 従五位下、上総介、正四位下、左近衛権少将、加賀守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
加賀藩
氏族 前田氏
父母 父:前田吉徳、母:側室・縫(奥泉(石川)氏・善良院)
兄弟 宗辰重煕利和重靖重教治脩、他
婚約者:徳川宗直の娘・賢姫
養子:前田重教
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前田 重靖(まえだ しげのぶ)は、加賀藩の第8代藩主。加賀前田家9代。第5代藩主・前田吉徳の五男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰重煕、重靖、重教治脩)のうち3番目の藩主である。

来歴

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享保20年、金沢で生まれる。[1]幼名は嘉三郎。延享4年(1747年)、利見(としちか)とする。寛延元年(1748年)の加賀騒動により、翌寛延2年(1749年)3月、異母兄・利和と入れ替わる形で江戸に上り、藩主・重煕の仮養子となる。宝暦元年(1751年)11月、松平の名字を与えられる。[2]同年12月、将軍徳川家重に謁し、従五位下に叙されて上総介を称する。

宝暦3年(1753年)5月18日、異母兄・重煕の死により、末期養子として家督を継いだ。6月、重煕と同じく将軍徳川家重より偏諱を授かって重靖に改名する。また正四位下・左近衛権少将となり、加賀守を称する。同年7月28日、藩主として初めて帰国の許可を幕府より得る。8月16日出立するが、道中で麻疹を患い、金沢に到着するものの、9月29日に19歳で病死した。同年10月5日に至り、加賀藩は重靖の死亡を公表した。家督は異母弟の利篤(重教)が継いだ。

系譜

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  • 父:前田吉徳(1690年 - 1745年)
  • 母:縫、善良院 - 奥泉(石川)氏
  • 婚約者:賢姫 - 徳川宗直の娘
  • 養子

脚注

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  1. ^ 以下、『寛政重修諸家譜』。
  2. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』、172~173頁。