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国主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、太守、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。

陸奥国出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩伊達氏)・盛岡藩南部氏)・秋田藩佐竹氏)・米沢藩上杉氏[1]を国主扱いにしている[2]。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩天草諸島唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行松浦肥前守平戸藩)、桃山時代に国域が狭少になった志摩一国[3]一円知行の九鬼氏稲垣氏鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。

また、大身であっても徳川御三家松平肥後守会津藩)、松平讃岐守高松藩)、井伊掃部頭彦根藩)、久松家松山藩)(桑名藩)も国主・国持という家格には加えない(御三家は別格であり、会津藩松平家・高松藩松平家・井伊家も代々将軍の執務席に最も近く格式の高い溜之間[4]伺候席とする「常溜」であり、特別な家格を有していた)。 また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。

国主・国持大名の基準

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時代により「国持十四家」[5]から「国持二十家」まで呼び方に差があるが、名数や歴史の辞典などでは「国持十八家」[6]での掲載が多い。 (南部が従五位下・奏者番伝謁、有馬が無城[7]福井が25万石に減封[8]時、柳沢が川越7万石、津山が5万石に減封、が2万石格の時期は国主ではない)

  1. 家督時に四品(従四位下)侍従以上に叙任。部屋住の初官は従四位下以上で、五位叙任のない家。
  2. 参勤交代で参府・出府時、将軍に拝謁以前に上使として老中が大名邸に伝達にくる栄誉をもつ家。
  3. 石高での下限は確定できない[9]

とされるが、例外もある。

国主・国持大名のうち、山内家を除く松平姓の家と、鎌倉府および室町幕府の重臣であった上杉家(宗尊親王の近侍・勧修寺重房より)・細川家(足利義詮の執事・細川清氏より)は世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)がある。また、武家官位として国持大名が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、通常の実体のない「~守」名乗りとは違うものとされていた[10]

国主の一覧

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本国持(一国一円)10家(藤堂氏、松江松平氏の2氏は後世)
家名 領国 城地 石高 伺候席 初官 経過 極官 備考
松平加賀宰相
前田家
加賀・能登・越中 金沢 102万5,000石 大廊下-下 正四位権少将 家督時-権中将/50歳-宰相 従三位 殿上元服・偏諱
松平修理大夫
島津家
薩摩・大隅・日向 鹿児島 72万石 大広間 従四位侍従 家督時-権少将 従四位上権中将 殿上元服・偏諱・薩摩守独占
松平長門守
毛利家
長門・周防 36万9,000石(関ヶ原後は29万石、江戸初期に高直し) 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平因幡守
因幡池田家
因幡・伯耆 鳥取 32万5,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平阿波守
蜂須賀家
阿波・淡路 徳島 25万7,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平筑前守
黒田家
筑前 福岡 47万3,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平安芸守
浅野家
安芸 広島 42万6,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平備前守
備前池田家
備前 岡山 31万5,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平土佐守
山内家
土佐 高知 24万2,000石(関ケ原後は9.8万石、江戸初期に高直し) 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将
宗対馬守
宗家
対馬 府中
(厳原)
10万石格 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将
藤堂和泉守
藤堂家
伊勢・伊賀 32万3,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将
松平出羽守
雲州松平家
出雲 松江 18万6,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
御家門
大身国持
家名 領国 城地 石高 伺候席 初官 経過 極官 備考
松平陸奥守
伊達家
陸奥仙台 仙台 62万石→1869年に28万石に減封 大広間 従四位下侍従 家督時-権少将 従四位上権中将 殿上元服・偏諱・陸奥守独占
細川越中守
細川家
肥後熊本 熊本 54万石(支藩含) 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平肥前守
鍋島家
肥前佐賀 佐賀 35万7,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
有馬中務大輔
有馬家
筑後久留米 久留米 21万8,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将
佐竹右京大夫
佐竹家
出羽秋田 秋田 20万5,000石 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将
上杉弾正大弼
上杉家
出羽米沢 米沢 30万石(1664年に15万石に減封、1866年に18万7千石に加増、1869年に14万7千石に減封) 大広間 四品 家督時-侍従 従四位下権少将 殿上元服・偏諱
松平越前守
福井松平家
越前福井 福井 50万石(1686年に25万石、1721年に30万石、1818年に32万石に加増) 大廊下-下 四品 家督時-侍従 従四位下権中将 殿上元服・偏諱・越前守独占[11]、御家門
南部大膳大夫
南部家
陸奥盛岡 盛岡 20万石(はじめ10万石、1808年に20万石に高直し。1869年に13万石に減封) 大広間 五位 家督後30年/50歳-四品 権少将
松平越後守[12]
津山松平家
美作津山 津山 10万石(のち5万石に減封、1817年に10万石に加増[13]。) 大廊下-下 四品[14] 家督時-侍従[14] 従四位下権中将[14] 殿上元服・偏諱・三河守[15]、越後守独占、御家門
松平美濃守
柳沢家
大和郡山 郡山 15万1,200石 帝鑑間 五位 家督後-四品 従四位下侍従
準国主(「国持に差継候表大名」)
家名 領国 城地 石高 伺候席 初官 経過 極官 備考
伊達遠江守
宇和島伊達家
伊予宇和島 宇和島 10万石 大広間 四品 家督後30歳代-侍従 従四位下権少将
立花左近将監
立花家
筑後柳河 柳河 10万9,000石 柳間→大広間 五位 家督後-四品 従四位下侍従
丹羽左京大夫
児玉丹羽家
陸奥二本松 二本松 10万3,000石 柳間→大広間 五位 家督後-四品 従四位下侍従

元は国主・国持大名であったと推察される大名家

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元は準国主・国持並大名であったと推察される大名家

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脚注

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  1. ^ 上杉家は実高337,240石で、太閤検地の出羽一国(31万石)分を超えている。江戸期の出羽一国は150万4千石。
  2. ^ 『徳川盛世録』25ページ
  3. ^ 律令の志摩国西部を堀内氏善と織田信雄が荷坂峠を境として、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入した。
  4. ^ 深井雅海『江戸城-本丸御殿と江戸幕府』(中公新書 2008年)P24
  5. ^ 次項(本記事の第2項)の二十二大名家から有馬・宗・南部・柳沢および家門(福井・松江・津山)・親藩並(鳥取池田)を除く
  6. ^ 資料により構成大名が異なる場合がある(有馬・宗・南部・柳沢・津山が入るかは文献による)。
  7. ^ 田中氏一国一城令久留米城を破却されている。
  8. ^ 本記事の第3項及び「福井藩」も参照。
  9. ^ 宗家対馬一国の米の実高は4500石で、喜連川家(10万石格)の5000石より少ない。
  10. ^ 山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』(講談社学術文庫、2004年)P223
  11. ^ 上杉氏大岡氏は例外。
  12. ^ 将軍家からの養子縁受け入れ以降の特例。
  13. ^ 将軍家からの養子縁組受け入れのための家格向上のため。
  14. ^ a b c 将軍家からの養子縁組以降。
  15. ^ 以上は将軍家からの養子縁組以降。
  16. ^ 東蒲原は会津の上杉領(のち蒲生が継承)で、堀氏は越後一国領有ではない。
  17. ^ 下越(揚北)には忠輝の与力大名である村上家溝口家があり、厳密には長沢松平家は越後一国領有ではない。
  18. ^ のちの福井藩も減封で、朱印状が国名の「越前少将」から地名の「福井侍従」にいったん降格されている。

関連項目

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