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国崎登

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国崎 登
生誕 1886年8月20日
日本の旗 日本 広島県
死没 (1960-11-27) 1960年11月27日(74歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1907年 - 1941年
1944年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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広島県出身。国崎順三郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。歩兵第63連隊付などを経て、1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し歩兵第63連隊中隊長に就任。

1921年(大正10年)4月、陸軍歩兵学校教官となり、1923年(大正12年)3月、歩兵少佐に昇進。1925年(大正14年)5月、参謀本部員に発令され、歩兵第28連隊大隊長を経て、1927年(昭和2年)7月、歩兵中佐に進級し近衛歩兵第2連隊付(中央大学配属将校)に就任。1930年(昭和5年)8月、近衛師団司令部付となり、近衛歩兵第4連隊付、盛岡連隊区司令官を歴任し、1932年(昭和7年)4月、歩兵大佐に昇進。

1934年(昭和9年)3月、歩兵第42連隊長に就任し、第9師団参謀長を経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第9旅団長となり日中戦争に出征。徐州会戦などに参戦。1937年(昭和12年)10月、国崎支隊長となり南京攻略戦に参加。歩兵学校長に転じ、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に進んだ。同年8月、第7師団長に親補され、ノモンハン事件に出動した。1940年(昭和15年)8月、第7師団は北海道に帰還し、1941年(昭和16年)11月、予備役に編入された。

1942年(昭和17年)4月、修道中学校長に就任するが、1944年(昭和19年)7月に召集され、留守第7師団長となり、旭川師管区司令官として終戦を迎え、1945年(昭和20年)11月に召集解除となった。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

親族

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  • 二男 国崎健(陸軍大尉、戦死)

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

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