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大原惟宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大原惟宗
時代 戦国時代
生誕 永正13年(1516年[1]
死没 永禄7年(1564年1月[1][2]
別名 信之[2]、左近右衛門[注釈 1][1]
主君 松平清康広忠家康
氏族 称・佐々木氏流大原氏[4]
榊原清政の妻[5]天野繁昌の妻[3][注釈 2]
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大原 惟宗(おおはら これむね)は、戦国時代武将松平氏の家臣。

略歴

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三河国額田郡武士で、岡崎城主・松平清康広忠家康の三代に仕えた。子孫は近江源氏佐々木氏の支流である大原氏の一族を称するが、伴姓設楽氏と同族とする説もある[4][3]天文6年(1537年森山崩れ以降、三河を追われていた松平広忠今川氏の後援を得ると、林忠満八国詮実大久保忠俊成瀬正頼と謀って広忠を岡崎城に迎え入れることに貢献している[1][6]弘治2年(1556年織田氏の攻撃を受けた福谷城への援軍に加わった[7]

永禄6年(1563年三河一向一揆が蜂起すると一揆方に加担したが、戦後には赦免された。永禄7年(1564年吉田城近隣の下地で今川軍と戦い、戦死した。43の戦場を経て、17度自ら槍を交えたという。無嗣だったが、生前の功によって当時3歳だった娘が所領の継承を許されたという[注釈 2]。惟宗の妻は榊原一徳斎に再嫁し、後に娘はその養女として天野繁昌に嫁ぎ、その長男の直勝は後年になって大原氏を称して惟宗の家名を再興した。また元禄年間には再度天野氏から長行が出て、再び大原氏が再興されている[1][3][8]。なお『寛永諸家系図伝』は、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いに従軍した人に大原作之右衛門があったと記している[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 通称は作之右衛門とも書く[3]
  2. ^ a b 大原氏の家伝は子に正直(四郎右衛門)が、また『三河国二葉松』には子に源左衛門があったとする[3][4]

出典

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参考文献

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  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、2001年。ISBN 978-4-04-030200-3 
  • 袋井市史編纂委員会 編『袋井市史』 史料編1、袋井市、1981年。 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜』 2巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0206-2 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0208-6 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜』 9巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0213-0 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜』 14巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0218-5 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜』 19巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1966年。ISBN 978-4-7971-0223-9