岩崎清春
岩崎 清春(いわさき きよはる、生年不明 - 1912年)は明治期の実業家であり東京小石川区の区会議員。娘婿に田中鉱山の副社長を務めた田中長一郎がいる。
略歴
[編集]東京府士族。1877年(明治10年)に開業[1][2]。小石川区の白山御殿町に職工百余名規模の工場を持ち、洋傘骨製造及び金属延板製造業を営む。江戸時代末期から輸入されていた洋傘が庶民にも普及し始めたのは明治元年頃のこと。当初の洋傘、蝙蝠傘は洒落た舶来品として扱われており、明治10年代に入り国産の洋傘製造が始まる。清春は1890年(明治23年)3月に洋傘骨製造機の、1892年(明治25年)1月には洋傘骨弾性回復機の特許を取得[注 1]。明治二十七八年戦役では砲兵工廠の嘱託で信管製造も担った[4]。
1895年(明治28年)12月より1907年(明治40年)11月まで小石川区会議員を4期務める[5]。同期議員に鳩山和夫。その妻で広く教育界で活動していた春子とも交流があった[6]。1903(明治36)年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会では洋傘骨を出品し二等賞を受賞している。1907年9月、小林電鍍合資会社の設立に伴い出資[7]。同年、四女のタカ(1886年生)が田中長一郎(1881年生)に嫁ぎ、翌年その長男・長三が誕生。清春はタカの結婚から5年後の1912年(大正元年)に没した[8]。日本機械学会賛助会員。日本海員掖済会特別会員[9]。東京鉄工業組合委員[10]。住所は東京市小石川区竹早町十七番地[11][12][注 2]。
同居の家族に妻・キム子(1856年生)[13]、岩崎ぎん[14]あり。三女・みき(1884年生)の夫は婿養子として岩崎家に入った岩崎武治(1873年生)。東京帝国大学工科大学の機械工学科を1898年に卒業[15]し、1904年ごろ三井物産へ入ると機械部[16]へ配属。1907年11月から1911年10月まで小石川区会議員も務めた[17]。1912年(大正元年)石油輸入業で一時独立。後年ライジングサン石油(昭和シェル)にて勤務[18]。武治とみきの間に長男・正亮[注 3]、二男・兼亮がいる。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 粕川信親 著、守屋物四郎 訂『工芸宝典:新式実験』目黒書店、1902年、435-436頁。NDLJP:854127/250。
- ^ 東京興信所 編『商工信用録』(9版)、1904年、p.19。NDLJP:803686/18。
- ^ 『帝国ニ於ケル特許発明ノ発達一斑』農商務省特許局、1903年、227頁。NDLJP:845492/121。
- ^ 飯山正秀 編『成功偉人名家列伝:一名・信用公録』 第1編、国鏡社、1906年、517頁。NDLJP:778186/344。
- ^ 『小石川区史』東京市小石川区、1935年、287-293頁。NDLJP:1875569/203。
- ^ 東京��立図書館 “渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫目録“ 「渡6492」鳩山春子より岩崎清春への書簡。 2023年12月4日閲覧。
- ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第7286号、付録 p.1、1907年10月10日。NDLJP:2950632/34。
- ^ 『日本機械学会60年史』日本機械学会、1958年、55頁。NDLJP:2485599/74。
- ^ a b 『内外海事要録』(9版)内外海事学会、1895年12月、33頁。NDLJP:1516914/18。
- ^ 「第六回機械工業従事者懇親会」『読売新聞』1895年12月4日、朝刊6頁(広告)。
- ^ 工学会 編『工学会誌』(15) 180号、1896年12月、頁外(850頁相当)。NDLJP:1528188/53。
- ^ “風俗画報 第353号 臨時増刊 小石川区之部 其三” (PDF). 江戸東京研究センター. 東陽堂. p. 4/39 (1906年11月). 2023年12月5日閲覧。
- ^ 婦女通信社 編『大日本婦人録』1908年、47頁。NDLJP:779870/86。
- ^ 『東京市養育院報告』(第29・30回/明治33・34年度)東京市養育院、1911年、157頁。NDLJP:798824/201。
- ^ 『日本現今人名辞典』(訂正2版)日本現今人名辞典発行所、1901年、イの11頁。NDLJP:782772/34。
- ^ 『実業の世界』 8巻、13号、実業之世界社、1911年7月1日、36頁。NDLJP:10292822/32。
- ^ 『小石川区史』東京市小石川区、1935年、296-298頁。NDLJP:1875569/205。
- ^ 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』(12版)、1937年、神奈川 13頁。NDLJP:3049247/502。
- ^ 東京高等学校 編『東京高等学校一覧』(第11〈昭和9年4月至10年3月〉)、1934年、153頁。NDLJP:1466111/84。
- ^ 『工学研究者名簿』(1961年版)日本学術会議第5部、1961年、319頁。NDLJP:2480024/166。
- ^ 『三菱日本重工技報』(1 (1))三菱日本重工業、1960年9月、99頁。NDLJP:1744625/52。