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平岩親吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平岩 親吉
平田院所蔵
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文11年(1542年
死没 慶長16年12月30日1611年2月1日
改名 七之助、親吉
戒名 平田院殿越翁休岳大居士
墓所 愛知県岡崎市大和町桑子の妙源寺
愛知県名古屋市千種区平和公園(東区代官町の平田院より移転)
官位 従五位下主計頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康義直
上野厩橋藩主、尾張犬山藩
氏族 平岩氏
父母 平岩親重天野貞親
兄弟 正広親吉康重康長
山田半右衛門室、平岩真野左衛門室、
渡辺守綱室、山田内右衛門室
石川正信
縫殿、伯耆守、堀隼人正重��
松平仙千代
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平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名徳川氏の家臣。上野国厩橋藩(前橋藩)尾張国犬山藩主。官位従五位下主計頭徳川十六神将の一人に数えられる。『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。

生涯

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天文11年(1542年)、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町坂崎)にて誕生。徳川家康と同年であったことから、今川義元の人質時代から家康に付き従った。天文16年(1547年)、小姓として駿府に送られた。

永禄元年(1558年)に初陣する。家康の信任は厚く、三河統一戦や遠江平定戦などで戦功があり、家康の嫡男・松平信康が元服すると、その傅役として信康を補佐した。天正7年(1579年)、織田信長により信康の切腹が家康に要求されると、親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし信康の処断を防ぐことはできず、その責任を感じて蟄居謹慎する。後に家康に許され、再び直臣として復帰した。なお、信康切腹が信長の命令によるものという江戸期の通説には矛盾や疑問点も多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説が有力である(松平信康#信康自刃事件について)。

天正4年12月(1576年1月)、信長の命を受けた家康の命を受けて、三河大樹寺にて、家康の母方の伯父・水野信元父子を誅殺している。

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、家康は天正11年(1583年)までに甲斐国を平定し、親吉は家康の命令で甲府城の築城を開始し、甲斐の郡代として武田遺臣を慰撫し、国内経営に尽力した(ただし、初期は岡部正綱と共同支配であったとみられている[1])。天正18年(1590年)、小田原征伐で戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。

関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、再び甲斐に戻り、甲府6万3,000石を与えられ、甲府城に在城した。慶長8年(1603年)、徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、幼少かつ駿府にいる義直の守役・代理として甲斐統治を行った。

慶長12年(1607年)、義直が尾張藩主に転ずると、義直の附家老として尾張に移り、藩政を執行した。また犬山藩主として12万3,000石を領した。

平和公園内の墓(愛知県名古屋市千種区)
平岩親吉の菩提寺である平田院(名古屋市天白区)

慶長16年(1611年)12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去した。享年70。墓所は平和公園内(平田院墓域)にある[2]

親吉には嗣子がなかったため、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、八男の松平仙千代を養嗣子として与えていたが、仙千代は慶長5年(1600年)に早世した。ただし『徳川幕府家譜』では親吉の養子になったのは、異母兄の松平松千代とある。如何に親吉が功臣としても、同母弟が後に御三家筆頭となる家系の兄を養子とするとは考えにくく[要出典]、庶子の第二子である松千代の方が適当といえる。

自身の死後、犬山藩の所領は義直に譲るように遺言していたといわれる。しかし家康は、親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、その昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、平岩氏の所領を継がせようとした[注釈 1]。しかしその子の母が親吉の子供ではないと固辞したため、大名家平岩氏は慶長16年(1611年)の親吉の死をもって断絶した(ただし、『犬山藩史』では甥の平岩吉範が後を継いで元和3年(1617年)まで支配したとされる)[注釈 2]。親吉の一族衆の平岩氏庶家は尾張藩士となり弓削衆と呼ばれた。また、江戸後期では姫路藩の家老職として存続し、現在でも兵庫県等でその系統は続いている。この系統の家紋は丸に右向きの並び弓。

人物・逸話

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秀吉公黄金贈与
伏見城築城の祝いの後、豊臣秀吉井伊直政本多忠勝榊原康政・平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えた。直政と忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げなかった。康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言った。そして親吉は黄金を受け取らず、「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」と、黄金を使者に返し渡した。このように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を信康や義直の後見として附け、自身の八男・仙千代を親吉の養子にした(名将言行録)。
平岩平右衛門
平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政と口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに禄を費やす者である」と言って、弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した(名将言行録)。
毒まんじゅう
慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見の直後、会見場で秀頼を護衛した加藤清正が急死する。それを受けて、まことしやかな「毒饅頭暗殺説」が巷間ささやかれ、後に歌舞伎の題材にもなった。それによると、家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を、自ら毒見した上で秀頼に勧めたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい秀頼を守ったという。史実において平岩も会見から9ヶ月後に死去している。また、この会見から2年ほどの間に浅野幸長池田輝政など、会見に参加した豊臣氏恩顧の大名が死亡しているが、これらについても毒殺であるという憶測がたてられることがある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 名古屋叢書三編第十二巻、葎の滴諸家雑談334ページによると、増山河内守に仕え、堀隼人正重といった。もっとも、この本は江戸末期に作者が他者からの伝聞を収録したものであるために、このことは参考程度に留めておかねばならないだろう。
  2. ^ また『士林泝洄』によれば、親吉には兄2人、弟2人、妹4人があり、兄2人はいずれも徳川家康への仕官を固辞して浪々し、弟2人のうち善十郎(康重)は家康に仕官し、その子吉勝は親吉に付属され、犬山城に勤侍した(知行400石)。次弟の助六(康長)は天正18年、武蔵国岩槻城攻めに親吉に従って参陣したが戦死した。妹4人のうち中2人は婿を取って平岩氏を称し、長女と末女は他家へ婚姻した[3]

出典

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  1. ^ 柴裕之「徳川氏の甲斐国中領支配とその特質」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
  2. ^ 千種区史跡散策路”. 名古屋市千種区. 2021年3月16日閲覧。
  3. ^ 『士林泝洄』巻第七・乙之部一(初付御部屋衆、平岩)- 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書(続編)』第20巻、1968年

登場する作品

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関連項目

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