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柳沢聴信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
柳沢聴信
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦4年(1754年
死没 天保3年7月27日1832年8月22日
別名 左右吉、のち八郎右衛門、佐渡守(通称
墓所 東京都新宿区市谷河田町正覚山月桂寺
官位 従五位下
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 柳沢氏
父母 柳沢信門
山中廣幸
主尹
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柳沢 聴信(やなぎさわ あきのぶ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本通称は左右吉、のち八郎右衛門、佐渡守。官位従五位下

旗本柳沢信門の長男。母は不詳。子に柳沢主尹らがいる。妻は山中廣幸の娘。聴信の死後、長男の主尹が家督を継いだ。

年表

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※日付は旧暦

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  • 瘞鶴碑(えいかくひ) - 文化6年(1809年)に、当時佐渡奉行であった聴信が真光寺(現在の新潟県佐渡市真光寺に存在した寺)の境内に建立したを埋めた石碑。現在も同寺の跡地に建立された金北山神社里社の境内に存在する。なお、瘞鶴碑を含めた真光寺跡と金北山、成就院が「金北山・成就院・真光寺跡」として佐渡市指定文化財記念物史跡」となっている。

脚注

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  1. ^ 黒板勝美編輯 『続徳川実紀新装版 新訂増補:第2篇』 吉川弘文館、1999年、pp.176

参考文献・資料

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