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石谷頼辰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石谷頼辰
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正14年12月12日1587年1月20日
改名 斎藤孫九郎→石谷頼辰
別名 孫九郎
官位 兵部少輔
幕府 室町幕府 外様詰衆
主君 足利義輝義栄義昭)→明智光秀長宗我部元親
氏族 斎藤氏石谷氏土岐氏
父母 父:斎藤利賢、母:蜷川親順の娘
養父:石谷光政
兄弟 頼辰斎藤利三斎藤三続、斎藤氏(蜷川親長正室)
義兄弟:斎藤親三[1]石谷氏長宗我部元親正室)
正室:石谷光政の娘
加兵衛、女(長宗我部信親正室)、女(斎藤三続室)
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石谷 頼辰(いしがい よりとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将室町時代末期の奉公衆

生涯

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美濃国斎藤利賢の長男として誕生した。初め孫九郎と名乗る。弟に斎藤利三、実妹に斎藤氏(蜷川親長の室)、義理の妹に石谷氏長宗我部元親の正室)がいる。

実母の再婚相手である石谷光政(空然)の養嗣子となって、その娘を娶る。その後、奉公衆であった義父の光政の後を継いで、室町幕府13代将軍足利義輝に仕えた。なお、母方の家で、妹の嫁ぎ先でもある蜷川家室町幕府政所代を世襲した一族である。

義昭が織田信長京都を追われると、織田氏家臣の明智光秀に仕えた。信長と土佐国戦国大名・長宗我部元親が四国の領有を巡って対立すると、光秀の使者として義弟の元親の説得に赴いたが、成功しなかった[2]

その後、主君・光秀が本能寺の変を起こし山崎の戦いにて敗死したため、頼辰は妹の嫁ぎ先である土佐へ落ち延びた。

長宗我部氏に仕え、中央での経験を買われて重用されて、その給地は四十四町にのぼり、娘は従兄にあたる元親の子・長宗我部信親(頼辰の甥)に嫁いだ。

しかし天正14年(1587年)12月12日、戸次川の戦いで女婿・信親と共に戦死した。

脚注

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  1. ^ 蜷川親世の二男。
  2. ^ 谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4642063234 P249より。

参考文献

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  • 桐野作人『明智 長宗我部 斎藤 信長打倒の動機』(Kindle)学研〈歴史群像デジタルアーカイブス<明智光秀と本能寺の変>〉、2014年。 ASIN B00NWBFGLW