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置賜郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山形県置賜郡の範囲

置賜郡(おきたまぐん、おきたまのこおり)は、山形県出羽国羽前国)にあった。中世から近世には長井郡ともいった。

郡域

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郡域は下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。

歴史

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文献初出は『日本書紀』の持統天皇3年1月3日669年2月8日)で、陸奥国優𡺸雲郡[1]城養蝦夷脂利古の息子2人が出家を願い出て許されたという記事にある。この当時は制なので、正しくは優𡺸雲評であろうが、この優𡺸雲(うきたみ、うきたま[2])が置賜の前身とされる。城養蝦夷とは、城柵から食糧を給付されていた蝦夷なので、この頃の置賜評に名称不明の城柵があったこと、蝦夷が居住していたことも推定できる。

和銅5年10月1日712年11月4日)に、最上郡とともに新設の出羽国の下に移された[3]。『続日本紀』にはこの後の霊亀2年9月23日716年10月12日)条にも陸奥国置賜最上2郡を出羽国に隷(つ)けるという記事があって矛盾するが、霊亀2年のほうが何らかの誤りとみられている[4]

平安末期は奥州藤原氏の支配下に入った。その滅亡後、大江広元が支配し、広元の子の長井時広が継承。置賜郡北西の長井荘(現長井市)から、以後長井氏を名乗る。後に長井氏が東南の米沢を拠点としたことから、置賜郡全体が長井荘とも言われるようになる[5]。近世には長井郡とも呼ばれるようになった[6][7]

近世までの沿革

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近代以降の沿革

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所属町村の変遷は南置賜郡#郡発足までの沿革東置賜郡#郡発足までの沿革西置賜郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照

脚注

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  1. ^ a b 𡺸は山偏に耆。Unicode番号:U+21EB8
  2. ^ 新日本古典文学大系『日本書紀』(3の489頁)と岩波文庫『日本書紀』(5の248頁)に「うきたま」。
  3. ^ 『続日本紀』該当年月条。
  4. ^ 高橋崇『律令国家東北史の研究』18頁。
  5. ^ 『日本地名大系』。
  6. ^ 『角川日本地名大辞典』。
  7. ^ 『長井市史』原始古代中世編

参考文献

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  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 6 山形県、角川書店、1981年12月1日。ISBN 4040010604 
  • 旧高旧領取調帳データベース
  • 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀5』(岩波文庫、岩波書店、1995年、ISBN 4-00-300045-5
  • 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守、校注・訳『日本書紀3(新編日本古典文学全集4)』(小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X
  • 高橋崇『律令国家東北史の研究』(吉川弘文館、1991年、ISBN 4-642-02245-7
  • 『長井史 第一巻(原始・古代・中世編)』(長井市、印刷の芳文社、1984年

関連項目

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先代
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行政区の変遷
- 1878年
次代
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