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藤原仲成

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藤原 仲成
月岡芳年画『和漢百物語』「藤原仲成」。説話集『吉野拾遺』において、藤原仲成の亡霊が伊賀局のもとに現れた場面を描く。
時代 奈良時代後期 - 平安時代初期
生誕 天平宝字8年(764年[1]
死没 大同5年9月11日810年10月12日
官位 従四位下参議
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原種継、母:粟田道麻呂の娘
兄弟 仲成縵麻呂山人、藤生、井出湯守、世嗣安継?、薬子、東子
笠江人の娘
藤主
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藤原 仲成(ふじわら の なかなり)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿藤原式家中納言藤原種継の長男。官位従四位下参議

経歴

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延暦4年(785年)父・種継が暗殺されたため、若年ながら従五位下に叙され、翌延暦5年(786年衛門佐に任ぜられる。桓武朝では衛門佐・左中弁等を務める一方で、出雲介越後守山城守大宰大弐大和守伊勢守と地方官も兼ねた。この間、延暦16年(797年)従五位上、延暦17年(798年正五位下、延暦20年(801年)従四位下と桓武朝後半にかけて順調に昇進した。

平城朝では妹の尚侍薬子が天皇の寵愛を受けた事もあり、仲成は重用され権勢を誇ったが、陰険で専横な振る舞いが多かったために人々から憎まれたという。また、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変でも薬子とともに、藤原宗成を唆して伊予親王謀反を勧めさせ、さらには平城天皇を煽り立てて伊予親王を自害に追い込んだともされる[2]。変後仲成は左兵衛督・右大弁と要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に任ぜられ公卿に列した。

同年に平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると、権勢の失墜を恐れた仲成・薬子兄妹は平城上皇と共に平城京に移り上皇の重祚を画策して二所朝廷の対立を招く。大同5年(810年)6月に観察使制度の廃止により参議となる。しかし、9月6日の平城上皇による平城京への遷都命令により平城上皇・嵯峨天皇の対立が激化すると、9月10日嵯峨天皇に先手を打たれて捕縛、右兵衛府に監禁の上、佐渡権守に左遷。翌11日に佐渡へ移されないまま、紀清成と住吉豊継の手により射殺された(薬子の変)。享年47。

仲成の射殺を最後として以後、平安時代末期の保元の乱まで中央では死罪は行われなかったと言われている。一方で、仲成に対して行われた「射殺」という処刑方法は、養老律令にあるの方法とは異なり、かつ一旦正規の左遷手続が下された相手に行われている事から、法律の規定に基づいた「死刑」ではなく、天皇独自の判断による「私刑」であった可能性が指摘されている[3]

また、嵯峨天皇が藤原仲成・薬子兄妹を糾弾した詔の中で、薬子と異なって仲成の罪状は「薬子を教正しなかったこと」と「虚詐のことで先帝の親王と夫人(伊予親王とその母・藤原吉子)を凌侮した」の2点のみであった。つまり、国家や天皇を脅かしたとまでは認定されなかったにもかかわらず処刑されたことについて、有罪であっても処分が重過ぎるという評価が当時からあったとみられる。貞観5年(863年)冤罪で殺された人々を慰霊するために開始された神泉苑御霊会において、有罪と認定されたまま「観察使」の名称にて慰霊の対象に加えられている(薬子がこうした扱いを受けていないのとは対照的である)[4]

人物

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欲の深い性格で、の勢いで行動する事があった。親族の序列を無視し、諫止にも憚る事はなかった。妹・薬子が朝廷で自分の思うままに行動するようになると、その威を借りてますます傲り高ぶるようになり、皇族や高徳者が多く陵辱を受けた。

妻(笠江人の娘)の叔母が非常に容貌が優れていた事から仲成は好意を寄せるが、嫌われて思い通りにならなかったため、力ずくで意に沿わせようとした。そのため、叔母は佐味親王の許へ逃げ込むが、仲成は親王とその母(多治比真宗)が住んでいた家にあがりこみ、叔母を見つけると暴言を吐きながら、道徳に反する行動に出た。

仲成が殺害されるに及び、人々は「自らの行いが招いた事だ」と思ったという[5]

逸話

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大同3年(808年)に2羽の若犬養門の樹の枝上でを寄せ合い頭部を交互にした状態で一緒に死んだ。烏は一日中落ちてこなかったため、遂にある者が打ち落とした。これを見聞きして、人々は藤原仲成・薬子兄妹が罪人となる予兆だと噂したという[6]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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天長10年(833年)6月9日に大赦により薬子の変で罰せられた罪人に対する赦免、流罪となった罪人(藤原仲成の子息を含む)に対する近国移送を行うこととなり[9]、同月16日に罪人藤原永主・山主・藤主が豊前国から備前国へ移されたことから[10]、永主・山主も仲成の子息とも想定される[11][12]

脚注

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  1. ^ 尊卑分脈』における没年47歳より逆算。『公卿補任』の没年37歳から逆算すると宝亀5年(774年)生となる。
  2. ^ 『類聚国史』大同5年9月10日条
  3. ^ 上横手雅敬「『建永の法難』について」『鎌倉時代の権力と制度』(思文閣出版、2008年)による。
  4. ^ 西本昌弘「神泉苑御霊会と聖体護持」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 237-240:初出:原田正俊 編『アジアの死と鎮魂・追善』(勉誠出版 アジア遊学245、2020年)
  5. ^ 日本後紀』大同5年9月11日条
  6. ^ 『日本後紀』大同3年4月16日
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『公卿補任』
  8. ^ 『尊卑分脈』
  9. ^ 『続日本後紀』天長10年6月9日条
  10. ^ 『続日本後紀』天長10年6月16日条
  11. ^ 佐伯有清「新撰姓氏録編纂の時代的背景」『新撰姓氏録の研究』研究篇、吉川弘文館、1963年、208頁
  12. ^ 福井俊彦「薬子の変と官人」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』24、1978年、84頁

出典

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関連項目

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