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藤波光忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤波 光忠
時代 江戸時代後期
生誕 寛政4年閏2月19日1792年4月10日
死没 天保15年6月30日1844年8月13日
官位 従二位非参議
主君 光格天皇仁孝天皇
氏族 藤波家
父母 父:藤波寛忠、中山砥豫子
市橋津子、吉野はな、清姫
教忠
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藤波 光忠(ふじなみ みつただ)は、江戸時代後期の日本公卿神宮祭主

生涯

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神宮祭主藤波寛忠の子として、寛政4年(1792年)に生まれる。

寛政8年(1796年)、5歳で叙爵される。寛政12年(1800年)、元服、昇殿を許され、同日従五位上神祇権大副となった。文化3年(1806年)、父より祭主職を譲られる。文化9年(1812年)、21歳で従三位に叙され、公卿に列せられた。

天保10年、祭主職を子の教忠に譲る。天保15年(弘化元年、1844年)、53歳で薨去した。

官歴

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系譜

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伝承

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光忠には奈保子(なほこ)という娘がおり、遷宮勅使庭田重胤明治元年(1868年)の参向してから寵愛を受けて、私通の末誕生した子供が竹内巨麿であるという。この奈保子は、明治8年(1875年3月18日に巨麿と従者を連れ花見に出かけたが、暴漢に襲われて亡くなった[1]。しかしこれらには史的根拠が無く、藤原明は、出自を伊勢神宮に求めたという点に注目するべきだとしている[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『公卿補任』光格天皇文化四年条。父・寛忠が同日に辞しており、その後任となったことがわかる。
  2. ^ 『公卿補任』光格天皇文化六年条。同日、祖父季忠が後任の造宮使となった。
  3. ^ 『公卿補任』光格天皇文化九年条。母・中山砥豫子が死去したことによる。
  4. ^ 『公卿補任』光格天皇文化九年条。祖父季忠の、恵仁親王立太子の後の大殿祭勤仕の賞を譲られたことによる昇叙。
  5. ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政二年条。豊岡治資の尻付に「同九二二任右兵衛佐」とあり、治資が文化9年2月2日(1812年3月14日)に任じられていること、また光格天皇文化九年条、光忠は神祇権大副のみ「如旧」であるから、従三位昇叙のときに辞したか。
  6. ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政七年条。前日の18日に父・寛忠が神祇大副を辞したことによる。
  7. ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政七年条。父・寛忠が薨去したことによる。
  8. ^ 『公卿補任』仁孝天皇弘化三年条。文政11年以降記述が見えないが、天保13年2月5日1842年3月16日)に子・教忠が造宮使に補任されており、同日又はそれ以前に辞したか。
  9. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻。天保7年8月4日1836年9月14日)に没している。

出典

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  1. ^ 長峰浩 1912, pp. 1–5.
  2. ^ 藤原明 2020, pp. 33–37.

参考文献

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  • 長峰浩 編『明治奇人今義経鞍馬修行実歴談』興国会、1912年。 
  • 『公卿補任』第五篇(黒板勝美・国史大系編輯会『新訂増補国史大系』所収)吉川弘文館、1974年。
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』下巻、吉川弘文館、1996年。 
  • 藤原明『幻影の偽書『竹内文献』と竹内巨麿:超国家主義の妖怪』河出書房新社、2020年。