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利用者:Quark Logo/sandbox人吉城・下書

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人吉城
熊本県
水手門の石垣。奥は城山で、近世の三の丸。
水手門の石垣。奥は城山で、近世の三の丸。
別名 繊月城(せんげつじょう)、三日月城、求磨城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし[1]
築城主 相良長頼
築城年 元久年間(1204年 - 1206年
主な改修者 ��良義陽相良頼寛
主な城主 相良氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 石垣、土塁、堀、堀切
指定文化財 国の史跡
再建造物 多門櫓、長塀、角櫓
位置 北緯32度12分39.9秒 東経130度45分59.37秒 / 北緯32.211083度 東経130.7664917度 / 32.211083; 130.7664917 (人吉城)座標: 北緯32度12分39.9秒 東経130度45分59.37秒 / 北緯32.211083度 東経130.7664917度 / 32.211083; 130.7664917 (人吉城)
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人吉城(ひとよしじょう)は、熊本県人吉市麓町にある、球磨川のほとりに築かれた日本の城。国指定史跡

概要[編集]

人吉城は、鎌倉時代遠江国御家人相良長頼が人吉荘の地頭に任命されてこの地に下向して以来、戦国時代には主城が八代市古麓城に移っていた時期があるものの、35代約600年の長きにわたって相良氏が所有した城である。江戸時代には人吉藩の藩庁となり、現在も城趾の中(総曲輪内)に人吉市役所の庁舎がある。


もとは中世山城である原城(はらんじょう)があり、近世にその一部を利用して平山城として整備された。



人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。

幕末に築かれた御館の石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。この城壁は日本の城では他に函館五稜郭鶴岡城にしかない(城以外も含めればお台場にも見られる)珍しいもので、いずれも人吉城の石垣程の規模ではない。

現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。また、城址の西側には人吉市役所、相良護国神社がある。

沿革[編集]

人吉城の航空写真
(1976年撮影)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
近年の出来事
  • 1961年昭和36年)9月2日、国の史跡に指定された。
  • 1989年平成元年)隅櫓が復元された。
  • 1993年(平成5年)には大手門脇多聞櫓と続塀が復元された。
  • 2005年(平成17年)人吉城歴史館が開館。施設内に石造り地下室の遺構が保存されている。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(93番)に選定された。

歴史[編集]

鎌倉時代[編集]

原城(人吉原城)[編集]

肥後求磨城(日本古城絵図), 人吉城の前にあった原城の位置が描かれた古図。



武者返し
二の丸跡


源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼元久2年(1205年肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が城を構え支配する所であった。主馬佑は長頼に反抗したため、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺した。これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。後に三の丸には鎮魂の為に「お津賀の社」が建立された(現在は残っていない)。

長頼は主馬佑の城を拡張し人吉城の基礎を造った。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。このため、この城の別名を「繊月城(せんげつじょう)」「三日月城」とも言う。

相良氏の内紛[編集]

戦国時代[編集]

戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一する。しかし、家督問題で内訌が生じた後の大永6年(1526年)7月14日、日向真幸院を治める北原氏が率いた大軍(一向宗を率いていたともいわれる)により人吉城は包囲される。相良義滋は策を用いて北原氏を追い返し事なきを得たが、これが相良氏入城後の人吉城が他家に攻められた唯一の出来事となった。

その後、19代当主の相良義陽によって天正年間(1573年 - 1593年)より城の大改修が始められた。途中に度々改修の中断があり、22代頼寛寛永16年(1639年)漸く近代城郭に生まれ変わった。

戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の名和氏大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正9年(1581年)に島津氏に降伏し臣従する。その後、義陽の子・相良頼房は天正15年(1587年羽柴秀吉九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏、家臣・深水長智の交渉により再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。


江戸時代以後[編集]

享和2年(1802年)には城内から出火、文久2年(1862年)2月には城下町の鍛冶屋から出火があり「寅助火事」と呼ばれる大火となった。この2度の火災で城は全焼した。その後、一部の建物が再建された。

明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。1877年(明治10年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。この際に幕末に再建された建造物も全焼したが、焼け残った堀合門が市内の民家に移築され現存する。

城跡は人吉城公園として整備され、


構造[編集]

肥後国球麻城図(日本古城絵図)

遺構[編集]

人吉城の石垣。
二の丸跡からの見る人吉市内の光景。


復元[編集]

復元された多門櫓と、胸川にかかる大手門橋。

現地情報[編集]

交通[編集]

資料館[編集]

人吉城歴史館


脚注[編集]

  1. ^ 本丸は二階建てであったが、天守閣ではなく、護摩堂(祈祷所)とされた。


参考文献[編集]

  • 西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年、447-448頁。ISBN 4-253-00375-3 
  • 児玉幸多, 坪井清足, 平井聖, 磯村幸男ほか 編『日本城郭大系, 福岡・熊本・鹿児島』 第18、新人物往来社、1979年、350-355頁。 
  • 熊本県立人吉高等女学校 編「国立国会図書館デジタルコレクション 人吉城」『球磨史話』熊本県立人吉高等女学校、1926年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182395/35 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 熊本県教育会球磨郡教育支会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 人吉城趾」『球磨郡誌』熊本県教育会球磨郡教育支会、1941年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262/492 国立国会図書館デジタルコレクション 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]