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毛利山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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毛利山城
岐阜県
別名 牛ヶ鼻砦
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 斎藤利堯
築城年 1582年(天正10年)
主な城主 西村治郎兵衛加治田衆
廃城年 1583年(天正11年)
遺構 曲輪空堀石垣
指定文化財 史跡等未指定[1]
再建造物 なし
位置 北緯35度27分39.7秒 東経137度03分07.2秒 / 北緯35.461028度 東経137.052000度 / 35.461028; 137.052000座標: 北緯35度27分39.7秒 東経137度03分07.2秒 / 北緯35.461028度 東経137.052000度 / 35.461028; 137.052000
地図
毛利山城の位置(岐阜県内)
毛利山城
毛利山城
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毛利山城(もうりやまじょう)、または牛ヶ鼻砦(うしがはなとりで)[2]は、岐阜県美濃加茂市愛宕山[3]にあった日本の城山城)。

概要

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加治田城の南方7キロメートル、JR古井駅北方の飛騨川右岸に面した丘陵(愛宕山)上に位置し、川の断崖絶壁に臨む堅固な山城(要害)であった[4]

岐阜城主・織田信孝家老で加治田城主の斎藤利堯が、兼山城主・森長可の不穏な動きに対抗して天正10年(1582年)に築いた[5]。織田信孝も兵を遣わしていた。利堯の重臣・西村治郎兵衛を中心とする加治田衆が城代、城番を行っていた。

加治田・兼山合戦の前哨戦として、当城にて加治田衆と森軍が戦い、森軍の2度の攻撃に落城しなかった。両軍休戦となり、西村治郎兵衛ら加治田衆は本城の加治田城攻城戦のため引き揚げ[4]、空となった砦は同年7月3日(1582年8月1日)に各務元正らの森軍が占拠した[5]

その後、森長可の領地加増のため城を統合し、加治田城と共に廃城となった[2]

現在

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城跡は「こびの天狗山」と呼ばれる宗教団体荒薙教の本部敷地となっている。曲輪空堀石垣が残り説明板がある。眼下に飛騨木曽川国定公園の飛騨川を望む景勝地となっている。

脚注

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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