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吉田橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田橋
2014年10月。馬車道より伊勢佐木町側を望む 地図
基本情報
日本の旗 日本
所在地 神奈川県横浜市
交差物件 首都高速横羽線(旧 派大岡川)
建設 1977年-1978年
座標 北緯35度26分43.4秒 東経139度38分3秒 / 北緯35.445389度 東経139.63417度 / 35.445389; 139.63417
関連項目
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吉田橋(よしだはし)は、神奈川県横浜市中区馬車道伊勢佐木町の間の首都高速道路の掘割に架かる道路橋である。1869年に架けられた2代目の橋は、日本初の無橋脚鉄製トラス橋、日本で2番目の鉄製の橋梁として知られる[1][注釈 1]。現在の橋は1978年に完成した5代目である。

歴史

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吉田橋関門跡(横浜市登録地域史跡)の碑

江戸時代に吉田勘兵衛により埋め立てられた吉田新田と、太田敬明により埋め立てられた太田屋新田の間に流れる派大岡川[2][注釈 2]には、1859年安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通された。外国人居留地とその外部を隔てる関門番所がおかれ[3]、この関所の内側にあたる一帯は現在でも関内と呼ばれている。

3年後の1862年文久2年)には仮橋から木造の本橋に架け替えられた。この橋は多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人らから苦情が寄せられた[4]。これを受け、1869年明治2年)にお雇い外国人の灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。鉄材はイギリスに発注され、橋長は約13(約23.6 m)、幅約5間(約9.1 m)、トラスの高さは約6尺(約1.8 m)で、工費は当時の額で7000円であった[5]。1869年11月の完成から1874年6月までの間は馬車1人力車5の橋税(通行料)が徴収され、「鉄」と「金銭」をかけて「かねの橋」と呼ばれた。当時の絵師たちからも評判になり、五雲亭貞秀の『横浜鉄橋之図』[6]三代目歌川広重の『横濱吉田橋ヨリ馬車道之真景』[7]などの錦絵に描かれた。吉田橋を通じて、関内の繁栄がかつて沼地であった伊勢佐木町に広がっていくが[8]、のちの埋め立てにより橋が道路より低くなる事態となり、1877年に信州人の宮坂初太郎・土屋茂十郎によって、5隻の台船を橋の下に並べ、潮の干満を利用して橋を1.5 m扛上[注釈 3]する工事が行われた[9]

1910年5月には16万円余りの工費を投じ、橋長約20間(約36.4 m)、中央径間60フィート(約18.3 m)、側径間25フィート(約7.6 m)の鉄筋コンクリート製3連アーチ橋への架け替え工事を着工し、1911年10月に完成した。幅は12間(約21.8 m)で、7間(約12.7 m)の車道の両脇に各2間(約3.6 m)の歩道が設けられた。ヨーロッパ様式のモダンなデザインで、橋詰と橋脚上にはバルコニーが設けられた。車道部分には1912年横浜市電の軌道が敷設されたが、関東大震災後に軌道は60 mほど下流側の羽衣橋[注釈 4]に移された[9]

第二次世界大戦後には地盤沈下によりアーチに変形をきたしたため、軟弱地盤に耐えうる橋に架け替えられることになる。1957年9月に着工、4714万円の工費をかけ、翌年5月には橋長38.5 m、総幅22 mのゲルバー式混合橋が完成した[10]

派大岡川は1971年廃川となり、その跡には1978年に半地下構造の首都高速横羽線が開通した。両岸の地上部は新横浜通り山下長津田線)の上下線が通る[11]。この工事に合わせ、吉田橋も架け替えられることになった。

1993年(平成5年)11月1日には、かつての関門番所跡が横浜市の「地域史跡」に登録された[12]

現橋

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橋梁下層、円い窓のある部分はマリナード地下街。その下を通るのは首都高速横羽線
吉田橋地下のマリナード広場。左端の円い窓は、上の写真の窓の裏側に相当する

現在の橋は1862年の木造橋から数えて5代目にあたり、1978年に完成した。2層構造で、上部は2車線の車道とその両側の歩道からなる。車道は馬車道方面から伊勢佐木町方面の一方通行で、イセザキモールは歩行者専用道路であるため、橋を渡った車両は新横浜通り桜木町方面または吉田町通りへの右折のみ可能である。欄干は、2代目の「かねの橋」をイメージした意匠が採られた[13]。橋梁の下層部はマリナード地下街の広場となっている。

  • 近隣の横羽線掘割区間の橋・トンネル

(大岡川・桜木町トンネル)- 吉田橋 - 羽衣橋 - 花園トンネル - 花園橋トンネル -(以南は高架となる)

橋の名称

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吉田橋の名称は吉田新田および同地の開拓に尽力した吉田勘兵衛から採られた。古くは、太田橋と呼ばれた時期もある[14]。現在は、京急本線黄金町駅付近の大岡川に架かる藤棚浦舟通りの橋が太田橋の名称を使用している。

脚注

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  1. ^ 15.鉄(かね)の橋、ブラントンと横浜中区役所観光情報)
  2. ^ 第96回港南歴史散策
  3. ^ 『横浜の橋』p14
  4. ^ 『横浜の橋』p23
  5. ^ 『かながわの橋』p31
  6. ^ 横浜浮世絵と一覧図神奈川県立歴史博物館
  7. ^ 横濱吉田橋ヨリ馬車道之真景神奈川県立図書館
  8. ^ 『横浜の橋』p26
  9. ^ a b 『かながわの橋』p33
  10. ^ 『かながわの橋』p33-34
  11. ^ 立神孝「特集・横浜の地下6 地下の土木工事」『調査季報』第63巻、横浜市政策局、1979年9月、38-42頁。 
  12. ^ 指定・登録文化財目録 p.21”. 横浜市教育委員会 (2018年11月5日). 2019年4月3日閲覧。
  13. ^ 横浜開港150周年記念事業 みんなでつくる横浜写真アルバム
  14. ^ 西区歴史さんぽみち 横浜道西区役所地域振興課)

注釈

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  1. ^ 文献によっては「日本初の鉄製の橋」とする記述も見られるが、本橋完成以前の1868年長崎市に鉄製の銕橋が開通している。
  2. ^ 大岡川派川。北側の大岡川から南側の中村川に向かって流れていた。
  3. ^ 橋桁を持ち上げる工事のこと。
  4. ^ 現在は国道16号が通る。

参考文献

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  • 関野昌丈『かながわの橋』神奈川合同出版 かもめ文庫、1981年11月30日、31-34頁。 
  • 小寺篤『横浜の橋』経済地図社、1973年12月10日、9-27頁。