コンテンツにスキップ

湯口栄蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
湯口 栄蔵
名前
カタカナ ユグチ エイゾウ
ラテン文字 YUGUCHI Eizo
基本情報
生年月日 1945年7月4日
日本の旗 日本大阪府大阪市
没年月日 (2003-02-02) 2003年2月2日(57歳没)[1]
日本の旗 日本奈良県奈良市
身長 174cm
体重 70kg
選手情報
ポジション MF
ユース
1961-1963 日本の旗 明星高校
1964-1967 日本の旗 関西大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1968-1972 日本の旗 ヤンマー 66 (3)
通算 66 (3)
代表歴
1968-1970[2] 日本の旗 日本 5 (1)
監督歴
近畿大学
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

湯口 栄蔵(ゆぐち えいぞう、1945年7月4日 - 2003年2月2日)は、日本の元サッカー選手。選手時代のポジションはミッドフィルダー大阪府大阪市出身。

人物

[編集]

関西大学在学中から日本代表に入り、大学卒業後はヤンマーディーゼルサッカー部に所属。日本代表として、1968年メキシコシティオリンピックに出場し銅メダルを獲得した。

国際Aマッチ通算5試合出場、1得点。引退後は近畿大学サッカー部の監督などを務めた。

2003年2月2日奈良県奈良市胃癌により死去した[1][3]。57歳没[3]

エピソード

[編集]

メキシコシティオリンピックの1次リーグ第三戦のスペイン代表戦に、0対0の後半30分から途中出場した。その際、日本代表と同組だったブラジル代表がリードされている状況を知った監督の長沼健が、決勝トーナメント準々決勝で地元メキシコ代表との対戦を避けるため、「点を入れるな。このまま(0対0の)ドローで良い」という指示をピッチ上の選手に与えるために送り出した選手として知られている[4]

所属クラブ

[編集]

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1968 ヤンマー JSL -
1969 - -
1970 -
1971 13 -
1972 JSL1部 -
通算 日本 JSL1部 66 3 -
総通算 66 3 -

代表歴

[編集]

出場大会

[編集]

試合数

[編集]
  • 国際Aマッチ 5試合 1得点(1969-1970)[2]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1968 0 0 6 1 6 1
1969 1 0 8 0 9 0
1970 4 1 1 0 5 1
1971 0 0 5 0 5 0
通算 5 1 20 1 25 2

出場

[編集]
No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1969年10月18日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●0-2 長沼健 ワールドカップ予選
2. 1970年12月10日 タイ王国の旗バンコク  マレーシア ○1-0 岡野俊一郎 アジア大会
3. 1970年12月12日 タイ王国の旗バンコク  クメール ○1-0 アジア大会
4. 1970年12月17日 タイ王国の旗バンコク  インド ○1-0 アジア大会
5. 1970年12月18日 タイ王国の旗バンコク  韓国 ●1-2(延長) アジア大会

得点数

[編集]
# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1970年12月12日 タイバンコク クメール共和国の旗 クメール共和国 1-0 勝利 アジア競技大会

指導歴

[編集]

脚註

[編集]
  1. ^ a b 「湯口栄蔵氏死去」 朝日新聞、2003年2月7日、2014年7月31日閲覧
  2. ^ a b “湯口 栄蔵”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ya/eizo_yuguchi.html 
  3. ^ a b 湯口栄蔵氏(メキシコ五輪サッカー代表選手)が死去”. 日刊スポーツ (2003年2月2日). 2012年9月1日閲覧。
  4. ^ 当時のサッカーのルールでは監督がテクニカルエリアで選手に指示を出すことが出来なかったからである。その為、監督の作戦変更をピッチ上のイレブンに伝えるための伝令の役割を湯口は与えられていた。釜本邦茂は入ってきた湯口から『(監督が)勝つな言うてまっせ。』という関西弁の伝言を聞いている。

外部リンク

[編集]