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大久保満寿子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大久保満寿子 1873年(明治6年)

大久保 満寿子(おおくぼ ますこ、天保11年(1840年) - 明治11年(1878年12月7日[1][2])は、維新の三傑の一人・大久保利通の妻。名前はます増子益子とも[2]。本人の手紙にはの字を使っている[3]

系譜

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薩摩藩士・早崎七郎右衛門の次女[2][4]。七郎右衛門は、長期にわたり大坂蔵屋敷の留守居役をつとめた[注釈 1]。弟は早崎七郎(海軍少佐)、早崎源吾(海軍少将)[1]。子は利和牧野伸顕利武石原雄熊、芳子(伊集院彦吉夫人)。

略伝

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安政4年(1857年)暮れ、利通が27歳の時に結婚[5]。利通が藩主の側近として京都や鹿児島を行き来する間、満寿は鹿児島で家を守った[6]

明治維新後も鹿児島で暮らしていたが、盟友であった西郷隆盛との対立が表面化して以降、大久保家の立場は厳しくなり、明治7年(1874年)に上京し、利通と暮らすようになる[7]

明治11年(1878年)5月、利通が紀尾井坂の変で暗殺される。満寿は体調を崩して病床につき、半年後の12月に死去した。『明治天皇記』では12月6日に死去し、9日の葬儀に宮中から勅使が差し遣わされたとする。死亡日は17日とする年譜もある[8]

夫・利通と共に青山墓地に葬られた[6]

夫婦関係

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東京に出てきてわずか4年で亡くなったため、残された記録は少ないが、後年、曾孫の利泰が世田谷の自宅で唯一残る満寿子の手紙を発見した。利通が京都で幕府打倒の密謀に奔走している頃、薩摩での日常の細々とした報告の手紙であった[9]。利通からは息子2人の米国留学を心配する妻をなだめる手紙や、欧米視察の際、旅先から妻を想う歌を詠んだ手紙が残されていて、愛妻家であった事がうかがえる[10]。利通は厨房で五目寿司を作ることもあったという[11]。大久保家には満寿の霊代として、小さな指輪が残されている[6]

出演

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 海音寺潮五郎『西郷と大久保』新潮文庫、1973年 p.11

出典

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  1. ^ a b 勝田孫彌『大久保利通傳 下巻』同文館、1911年 p.792
  2. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成 上巻』276頁。
  3. ^ 岩尾 1993, pp. 80–81.
  4. ^ 岩尾 1993, p. 81; 勝田 1911, pp. 791–792.
  5. ^ 岩尾 1993, p. 80.
  6. ^ a b c 岩尾 1993, p. 81.
  7. ^ 岩尾 1993, pp. 81, 83.
  8. ^ 岩尾 1993, p. 84.
  9. ^ 岩尾 1993, pp. 79–80.
  10. ^ 岩尾 1993, p. 82.
  11. ^ 岩尾 1993, pp. 82–83.

参考文献

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  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
  • 岩尾光代「大久保ます――夫「利通」支え郷里の家を守る」『続 維新の女』毎日新聞社、1993年、79-84頁。ISBN 4-620-30948-6 
  • 勝田孫彌『大久保利通傳』 下巻、同文館、1911年。 

外部リンク

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  • [1]-『女たちの明治維新 大久保満寿子』(鹿児島県発行・GraphKagoshima・H26年11月号)