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宮崎一夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮崎 一夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県逗子市
生年月日 (1932-12-10) 1932年12月10日
没年月日 (2016-03-24) 2016年3月24日(83歳没)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1952年
初出場 1952年
最終出場 1956年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

宮崎 一夫(みやざき かずお、1932年12月10日 - 2016年3月24日)は、神奈川県逗子市出身のプロ野球選手投手)、アマチュア野球指導者。

来歴・人物

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逗子開成高から、社会人野球コロムビアを経て、1952年毎日オリオンズに入団。

毎日では先発・リリーフ両面で活躍し、4年間で21勝(11敗)をマーク。しかし、監督別当薫とそりが合わず、エースの荒巻淳を優遇する投手起用方針に対して意見するなど、しばしば言い争うことがあった。そのためか、1955年も4勝(1敗)防御率2.19と好成績を挙げながら、シーズンオフに解雇通告を受けた。毎日球団からは大洋ホエールズへの移籍を勧められるが、宮崎はパ・リーグに残って毎日を倒したい気持ちからこれを断る。宮崎は解雇通知を受けた有楽町の毎日球団事務所からその足で銀座高橋ユニオンズの球団事務所に行くや、すぐに入団交渉を行い、そのまま仮契約を結んだ[1]

同年3月25日の対毎日戦に志願先発するが3回3失点と打ち込まれ負け投手になると[2]、シーズンでは2勝(4敗)に終わり、毎日から勝利を挙げることはできなかった。同年オフに高橋を吸収合併した大映ユニオンズに移籍するが、1957年は登板機会はなく、同年限りで引退。

1958年にアマチュア復帰を果たして羽幌炭鉱に入団。都市対抗野球大会1959年は投手、1963年は監督として出場。その後はしばらく球界を離れるが、1977年札幌トヨペットの監督として復帰。1980年の都市対抗野球大会では初出場ながらチームを準優勝に輝く。同社野球部の廃部に伴い、1984年から札幌第一高等学校野球部監督に就任。1990年には当時チーム最高記録となる南北海道大会準優勝、翌夏もエースで4番の高梨利洋を擁して準優勝。高梨の兄・芳昌とともにプロへ送り出すなど同校野球部発展の基礎を築いた。1995年にその高梨兄弟の父である高梨英夫に監督を引き継いで退任。

2016年3月24日悪性リンパ腫のため死去[3][4]。83歳没。

選手としての特徴

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オーバースローから投げる、カーブシュートを武器とした。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1952 毎日 25 6 1 1 0 5 2 -- -- .714 372 93.2 80 4 22 -- 2 28 0 1 32 24 2.30 1.09
1953 32 5 0 0 0 7 4 -- -- .636 426 106.1 90 6 29 -- 3 45 1 0 37 33 2.78 1.12
1954 24 12 1 0 0 5 4 -- -- .556 370 87.00 82 4 36 -- 1 47 2 0 36 32 3.31 1.36
1955 30 10 0 0 0 4 1 -- -- .800 318 77.1 78 4 17 -- 0 46 1 0 28 19 2.19 1.23
1956 高橋 33 6 0 0 0 2 4 -- -- .333 395 90.0 101 4 33 -- 0 39 5 1 47 40 4.00 1.49
通算:5年 144 39 2 1 0 23 15 -- -- .605 1881 454.1 431 22 137 -- 6 205 9 2 180 148 2.93 1.25

背番号

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  • 15 (1952年 - 1955年)
  • 19 (1956年)
  • 4 (1957年)

参考文献

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  • 森岡浩『プロ野球人名事典』日外アソシエーツ、2003年
  • 長谷川晶一『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』彩図社、2015年

脚注

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  1. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』134-135頁
  2. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』141-142頁
  3. ^ 札幌第一元監督・宮崎一夫氏が死去、83歳 スポーツ報知 2016年3月27日閲覧
  4. ^ 訃報 宮崎一夫さん 83歳=札幌第一高野球部元監督 毎日新聞

関連項目

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